公衆衛生 30巻8号 (1966年8月)

人とことば

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 シデナムが,もう一度生を得て,現在の医学教育を観察するとすれば,驚いてまごつくかもしれないが,ごたごたした細部はともかくその基本的な形式が,彼のよく知っていることを,否,それより,彼の想定した特異的疾患と,特効薬が現在の医学の経験と教育に有効に取入れられているのを見て,大いに満足することであろう。医学教育の目標と目的はシデナムの時代から変わっていないのである。つまり初学者に疾患の存在を認識し,何らかの疾病論的範疇にあてはめて,正しく診断することを可能ならしめ,疾病(または病者)を治療することにより疾病をなくすか,その悪性の影響度を評価したり,または減少させようとすることを教える。予防医学の教育も同様な目標,目的に由来し,単に時間的状況がずれているものとして,つまり疾病とその合併症とを治療するよりもむしろ予測することにある。

 特殊の医学的知識が急速に増大したのは,ここ100年位の間である。これはルネサンスの医師や利学者たちのつくった切線の延長としての基礎医学が更に伸張したものである。この切線とは,疾病の治療に関心をもつということで,ヒポクラテスのような健康への関心は全く含まない。医学生が解剖室で訓練をうけはじめる時からの枢要な関心事は,解剖学の初期にそれが納骨堂で行なわれた頃から,死と疾患にある。

随想 明日を担う公衆衛生

Magdaという女 山口 誠哉
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 Columbia大学公衆衛生学校に,Magda(Magdalena Socolovska,現ポーランド科学アカデミー社会医学教授)が入学してきたのは,1959年クラスのFirst Quarterもすみかけた1958年の10月頃であった。ソ連やチェコスロバキアで留学の経験があったとはいえ,ポーランド人であるMagdaにとって,英語を話すことは,やはり日本人同様,相当修練を要することであったらしい。同じOccupational Health専攻仲間である私や,Dr. Udel(現メトロポリタン生保会社医務部長)などとだべっている時など,「私共スラブ民族にとって…」という場合,「Slave〔sleiv〕」と発音して,皆の目を白黒させたこともあったほどである。

 当時,彼女には小学校に行っている長男と,小学校にあがる直前の小さい女の子があった。神経外科医であるご主人と遠くはなれて前後2年間もニューヨークで勉強したことは,よほどの覚悟があってのことだろう。何かの用事で,ブルックリンの彼女のアパートに電話をかけたことがあったが,その時電話に出た幼児のたどたどしい返答に,これが彼女の娘さんであるとわかりはしたものの,それから7年後にポーランドで再会し,美しく成人したその姿を眺めることができようとは思いもしなかった。

所感 羽生田 進
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 近頃,保健所に心電計を設置することが流行?している。その理由は,表向きは,保健所において成人病とくに高血圧,心臓疾患の診断をするため,ということでなかなか結構なこととも考えられるが,実際には保健所には医師がきてくれない。従って,医師を迎えるには,少しは診断の器具,器械が整備されていなければと,医師吸収策の1つ。さらに,保健所の医師も定年がくれば退職しなければならないが退職したら一体どうするか,せめて保健所にいる問に心電図ぐらい読めるようになっていれば開業もできるだろうというわけである。私も医師会長である以上,このことを十分理解してやらなければならない。しかし,保健所は個々の住民の健康診断をすることが目的ではない。地域住民の集団健康管理を中心とした,予防医学,公衆衛生と取り組むことが真の目的である。その保健所に医師がきてくれない。公衆衛生を専攻する医師が年々減少してきている。公衆衛生を専攻しても大学の教室か役所へ勤務するより他に生きる道がない。その道には定年制があり,一般公務員と同じ待遇である。大学で一年もよけいに勉強し,さらにインターンを一年経験し,さらに国家試験を受けて医師免許証を貰う。一般文科系統より2年もよけいに学生生活をやっても,その待遇に対しては,卒業年度で一律にされてしまう。第一線の現場に行った場合には,多少の技術手当が出るらしいが大したことはない。

保健所と住民 祖父江 昭仁
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 昭和36年の夏のことだった。東海対癌協会の企画で,スメアテストによる子宮癌検診が行なわれることになり,最初の白羽の矢が私どもの保健所に当たってしまった。私どもの管内は,三河湾国定公園の西域を占める観光地とはいえ,たいへん封建色の強い後進地域であったため,ご婦人方が大切なところを簡単にみせてもらえるとは思えなく,そのため,衛生教育を主体に4日間だけ臨時にクリニックを開設することにした。当日は管内医師会の産婦人科の先生方が予診をとられ,診察は県産婦人科医会の浅井会長さん以下,愛知県下ではふだんご高診の機会さえ一般的には困難な大先生方が毎日3人つつ当たられた。せっかく遠路お越しいただいても,おそらく門前雀らが予想されるので,あらかじめそのつもりで来ていただくようお願いしておいた。先生方は一様に釣道具などを車に満載して来られ,その準備のいいことに,ほっとした。対象としては35才以上60才までの婦人約500名に個人通知を役場から出しておいた。事前に子宮癌に関する講演と映画の会をもち,大変な盛況で堂に満ちた数百のご婦人方の熱気は少数の講師以下,関係者男性の胸をあやしくさわがせたほどだった。さて,4日間のクリニックはどうだったか。結果は,4日間とはいえ,午後1時から5時までの開設で総数も230名ほど,つまり3人の先生方は釣りどころか休憩の時間さえなく,逆にきりきり舞いさせられてしまった。

まだ気は若い 平野 義夫
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 「空襲のため電線が街路に垂れ下がっているから気をつけろよ」とおどかされて,昭和21年春東京虎の門に,時の文部大臣前田多聞さんを訪ねて,インターン制を廃止してほしいと直訴しようとした。当時金沢医科大学4年生だった学友宗野君と私の姿である。医師になろうとして昭和17年10月大学にはいった。卒業すれば当然免許証はくれるものと思っていたところが,20年夏の敗戦,占領軍が関係法を変え,入学済のものでも実地習練が必要なインターン制度ができた。まったくあてがはずれた。物価は暴騰する一方,入学時,月15円もあればよかった下宿代が,毎月,何千円も生活にいるのとあって,一刻も早く卒業して,すぐにでも免許証を得たいのは人情の常。一体,誰がこんな無定見なインターン制度などを始めたのかと無暗に腹がたつばかりだった。精神科の秋元波留夫教授に相談すると,意見は陳情して表明すべきだと言われた。大学病院の女医さんからは「前田多聞大臣は私の友達のパパで,とてもものわかりがいいわよ」などと言われて,ふらふらと上京し,直訴に及んだわけである。意外にもすらすらと大学教育局長の田中耕太郎さん(後の最高裁長官)に会わせてもらい,あらましを話すと,それは課長の方へ回れという。春木とかいった大学教育課長は,ぬらりくらりと,しまいには「君ら!ピストルがこちらを向いているのを知らんのか」と苦笑いしながら言う。

凉を追う 高木 剛一
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 戦後医学の進歩と相まって,公衆衛生の向上はめざましいものがある。

 乳児死亡率の低下,結核死亡数の減少,体位の向上,さらには食品,環境衛生の飛躍は最たるものがある。

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 最近,異常な問題となっている,いわゆる「腸チフス」事件を考えるとき,私達医学研究者グループとして,その考えとか目的をどのようにして一般の人々に理解していただけるかということに,特別な心をくばらざるを得ない心境である。

 かつて,国の施策としての「ポリオ生ワクチン」一斉投与の時,(当時私は御殿場保健所長として在任していた。まず,投与の完了した東京都衛生局に行き,実施方法や副作用の有無などについて調査した後,私自身と私の子供(乳幼児)と職員の希望者の子供に投与し,1週間その経過を観察した後,異常のないことを確かめて一般の人々の子供に投与した。

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 保健所の仕事は,管内住民の健康の確保と増進とを図り,生活向上に寄与することにつきる。この概念から,筆者は,管内全域の保健婦の全戸訪問を提唱するものである。

 全戸訪問ということは,文字通り保健婦が1戸1戸訪問して,規定された項目について観察と調査をかねてその事実を記載する。地域住民の健康管理の台帳を作成することである。この台帳によって自治体や地区が,衛生行政のすすめ方を考察できると思う。(調査用紙略―採点法をとったのは,その総点によって保健・文化・生活指導のいずれをすべきかが一目でわかるような仕組みとしたため)全戸訪問については,いろいろの問題点があろう。すなわち,

パリンドローム 古川 元
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 1.

 防疫所の仕事も大切だが,これからの公衆衛生活動こそ広く奥深い。この保健所は小さく狭くかつ薄暗い。あなたが所長をしておられる市立防疫所と大した差もないが……19年前の薄ら寒い冬のある日,着任早々の私は大いなる夢を描いて猛烈に張りきっていた。暗く汚れたうなぎの寝床のような細長い所長室で100Wの電熱器に小手をかざしながら,たて続けにまくし立てる相手の男,豊中市立防疫所長は色が浅黒く眼光鋭い中に学問の固まりといった秀才型で,真一文字に結んだ下唇が特に印象的だった。これで2回目の話合い,懇願というか,くどきというかとにかく私は強引に公衆衛生という名のもとに彼の転身を迫った。それから1週間後,彼の決意を知ると間発を入れず,豊中市長,府衛生部長,副知事,阪大微研の故谷口教授等の諒解と協力を求めてかけまわった。1カ月後,豊中市吏員から大阪府吏員・二級技官・豊中保健所普及課長として発令された。彼の計画性の緻密さ,正確さはまったく噂以上であり,府衛生部はもちろん他部の部課長なども彼を讃え賞めちぎった。やがて小さく狭く薄汚れた保健所は,大きく明るい保健所となり大阪府唯一の標準保健所としての基礎ができた。

地域の保健意識の一側面 小松 寿子
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私は1人の学校保健の研究者である。5月3日に,社会政策の若い研究家である某氏と一諸に高知市の一角の部落を数家訪問してさまざまのことをそれらの家の人について聞いてみた。その中でとくに印象に残ったのは,その人々が"戦前の方がむしろよかった"といっていたことである。20代の人は,自分らの小さいときは,ドロンコ遊びでもなんでもやりたいことが思いきりできた。今の子どもたちには思いきり何かをやる自由が与えられていないといった。40代の人はこういった。"わしらの若い頃は,人の山でまきを拾ってきてもそれをやかましくとやかくいわなかった。今はこまかいことまで合理性を偉い人らがするようになり,プロパンを使っている。日雇労務者として賃金のもらえる日は,月のうち精一杯20日で,1万円程度の収入である。近ごろ,息子が18才の嫁をもらっているが,足を悪くし運転手ができないのでペンキ屋に勤めている。その収入が少ないので一家が食べていけない。日雇労務者の仕事が終わってからお好み焼の店に出かけて皿洗いをして1万4千円もらう。締めて2万4千円で食べていかなければならない。戦前の方が楽なように思える。疲れて時どき目まいがする。病気ではないかと思うことがある。今の世の中では気を締めつけられるような気がする"

 仲間の某氏が「甲状腺がはれているね」といった。ふとみると大きくはれていた。

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 私が矯正施設の栄養管理の研究を始めてから30有余年になる。元来,食べることは昔から軽視され,"男子厨房にいらず"とか,"武士は食わねど高楊枝"という諺があったぐらいである。しかし矯正施設の収容者のように,与えられた食事以外は自由摂取できないところの栄養管理を研究しているものにとっては,ふり返ってみて栄養をとることの値うちの今さらながら大きいことに驚く。とりわけ強く感じたのは終戦時である。

 終戦時には,ご承知のような食糧難時代,収容者は配給限度内の食生活を行なっていた。従って,栄養失調者が続出し,死亡率は増加した。その原因は,副食物の質的欠陥にあることが明らかになり,刑務所死亡率減少策として,栄養改善の重要性が指摘され,新憲法下の基本的人権確保ということもその緊要性を加え,私がその改善担当官として着任したのである。就任以来,鋭意栄養改善事業の実行に従事した。その改善成果を数学的に明らかにするため,昭和21年から昭和25年の間の収容者の栄養摂取量,体位,体重の推移,罹病率などの消長を調べた。ところが,この終戦後の自然発生的な低栄養状態―それは人為的には再び人権上実行不可能な―を起点として,順次栄養を改善した場合,それに伴っていかに体力が向上し,疾病が減少していくかの大規模な人間実験ともいうべきものであった。

轟沈記 古川 元宣
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 「ずだーん!」。地底からゆさぶり上げるようなものすごい爆発音と衝激で私の身体はベットから一尺も宙に浮いた。昭和20年2月20日午前2時30分,南支那海の真中で,私の駆逐艦"野風"に敵潜の魚雷が命中した。常に不安と恐怖のうちに期待していた瞬間がついにきたのだ。反射的に,「生きるのだ」という執念に私の全心全霊は凝結した。その直後,艦は左舷を下にして真横に傾いてしまった。暗闇の中を,垂直になったフロアをよじ登って,下から重い鉄扉をおし上げ,そのすき間からかろうじてにじり出た瞬間,まさに間髪を入れず艦は水中に没し,私はもの凄い渦巻に水面から4.5メートルも引きこまれていた。私より遅れた百名ぐらいの者は皆,艦と運命を共にしたのである。海底では,無数の夜光虫がたち昇る泡とともに青白く光る美しい光景を今もなお思い出す。六高,阪大時代とも水泳選手として猛練習で鍛えぬいた私は,水には自信があった。星明りの中に波立つ海面には三々五々数十人の乗組員が浮いていた。私は板切れや棒切れを探し集めて,苦労して束を作った。助けられるか,死ぬか。いずれかの終末を迎えるまで,これにつかまって頭だけ出して漂流を続けることになろう。周囲の兵たちを呼び集めた。ちょうど10名だった。もはや何もすることがないと思った時からひどい寒さが襲ってきた。骨の髄から冷え切って,地上ではとうてい味わえないようなものすごい寒さである。

不快指数 神山 恵三
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 不快指数ということばは,最近ではブームをこえたが,一時はずいぶんはやったものだった。

 気象庁には,天気相談所があって,天気の相談いっさいを応じている。ブームの頃には,たくさんの不快指数についての問合せの電話がかかってきた。

若き日の感激 堀内 一弥
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 そのころ私は大学講師で,恩師の下に戦時研究に従事していた。課題は,「耐高性の増進に関する研究」というもので,今ならさしづめメキシコ・オリンピック対策と間違われそうなものであった。しかし,当時はそれどころではなく,B-29に対抗するわが空軍の戦闘機操縦者の耐高性を増進するのが目的であった。今から考えれば,全くバカらしい目的であったといえよう。

 私の当面の課題は,常圧からの急激な減圧によって生体に発泡現象を認めるか否か? 発泡するとすればその予防(耐高性につながる)はどうか?,というもので,教室で以前からやっていた潜水病の研究の実績を買われたものであったと思う。常圧からの減圧によって潜水病様の症状を呈することは,実地でも知られ,すでにアームストロングの航空医学の本には,山羊の血管の内に気泡が生じている写真が載っており,航空栓塞症(aeroembolism)という名前までついていた。しかし私たちの誰も実際にみたものはいない。そこで,カイウサギ,ダイコクネズミ,ハツカネズミを使って急速減圧実験を開始したが,発泡にいたるまでに酸素欠乏のために死んでしまう。ウサギ用,ネズミ用の酸素マスクを考案してやってみたがどうもうまくいかない。4月からはじめて,毎日がんばっているうちに,第3回目の応召,内地残留,戦病,などの邪魔が入ったため,とうとう11月になってしまった。いろいろ考えた末,酸素欠乏に強いガマをつかってみることにした。

健康とは 木村 正文
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 「健康」ということばの意味をいろいろ考えはじめてからそろそろ10年になる。種々の立場の人々がこのように考えたらどうか,あのように考えたらどうかと本に書いたり口にも出しているが,私にはいまだに「健康」というものの中味がよくわからない。

 おそらく,外国では,もっとちがった「健康」の内容があり,概念があるだろう。また,5000年昔のエジプトの「健康」と,数千年後の月世界の「健康」とはちがったものであろう。

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 都内,下町にある看護学院の学院祭に招かれた。看護歴史の授業を何時聞かお手伝いしているつながりからである。

 この学院は,進学課程,2年制ですでに准看護婦として職歴を持つ学生たちで,統一テーマは「職業と病気」である。この大きな問題に学生がどうとりくむか興味があった。職業病の解説,職業と病気の関係を歴史的に考察し,それに学院の周辺の工場などに対するアンケート調査の結果が柱になって会場に展示されていた。

バンカ島の思い出 長谷川 恒夫
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 毎年夏になると,戦争中の昭和17年から21年まで住んでいたバンカ島の生活を思い出す。バンカ島は赤道直下に在り,オランダ国営の錫会社のあったところで,バンカおよびビリトンという2つの島から成っている。その大きさは,2つの島を合わせて四国ぐらいもあろうか。スマトラ,ジャワ,ボルネオ,マレーにはさまれた海上交通の要衝であり,その頃は,海上密輸の中継地でもあって,華僑が多く,有名なバンカ美人の産地でもあった。島のいたるところに砂錫が埋蔵され,オランダにとって宝庫でもあった。オランダ人住宅の美しさは,今の東京の有名なホテルのロビーを想像してもらえばよい。この島は,錫ばかりでなく,ゴム林も多く,果物や海産物にも恵まれ,そのうえ,世界第一の品質を誇るバンカ胡淑の産地でもあった。従って,今でいえば,億万長者が大理石造りの華麗な住宅を片田舎に建てて住み,訪れるわれわれを驚かせたものであった。

 島には,世界中の一流商品が安くて豊富にある。物資不足の日本から渡来したわれわれには全く夢の島かと思われた。

農民に学ぶ 角田 文男
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 1つの麦わら帽子が壁にかけられたまま,冬を越して2年目の夏を迎えようとしている。この帽子とともに昨年の夏,隔離集団の調査で山間僻地に点在する部落を訪れて,言い習わされた"東北の農村"の典型をみてきた。私は,この素朴な美しさを持つ麦わら帽子をみつめながら,この1年間「泥沼の農村衛生とか,救いようのない貧困と不衛生に苦悩する農村保健」と抽象される,あの現実に対して公衆衛生はどのように対処すべきなのだろうかと自問自答してきた。

 答えはいつも「それは農民に学ぶことだ」ときまって繰り返された。この言葉の背景には,心に刻み込まれるような強烈な経験があるからである。

私と保健所長と松代地震 丸山 創
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 旧制高校の文科を卒業して,やせていたため戦争に行くのはやめて医科に転向した。何となく大学を卒業し,何となく保健所にはいり,何となく保健所をやめて大学の衛生学教室にはいった。そして再び保健所に戻ったのであるが,その日から私の保健所長としての第1頁が始まった。

 『1958年4月1日。それは私が保健所長に就任した歴史的な日だ。

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 病気になったときはじめて健康のありがたさが分る。どうして病気になったのか反省してみると,病気の源には,不眠,疲労,栄養不足,不労,汚染の5つがある。

 したがって,保健対策はこの5つをとり除くことに全力を集中すべきである。保健教育はこの知識を徹底させ,この実践の訓練をしなければならない。しかしこれらを,学校と家庭と社会の教育で徹底してやっていない。

草分け 内田 靖子
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 去年のちょうど今頃,鹿児島市山下保健所の重久房子婦長から「草分け」--鹿児島県の保健婦養成揺藍期--が送られてきた。彼女は昭和24年に桜島村の保健婦として就職して以来,保健婦として公衆衛生の道を一筋に歩みつづけてきた人であり,現在もよき指導者として保健所婦長の立場でよいお仕事を続けておられる。私の最も敬服している保健婦の一人である。

 その重久さんが鹿児島の保健婦事業の発達に大きな足跡をこのされた荒巻イチ氏をしのび,また鹿児島県の保健婦の草分け時代を記録に残そうと思いたたれ,自費出版されたのがこの冊子である。

「島の旅」ブームに思う 野村 茂
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 空を仰げば,満天に宝石をちりばめたような星空,などという実感は私どもの日常から次第に遠ざかっている。しかし,夏の夜に九州の山村,離島でみる星空は美しい。「きらめく星座」などという古い文句がふと思い出される。その空は清澄で俗塵がないのである。「上から下におよぶを風といい,下から上におよぶを俗という」などと講釈されるのをみれば,大気汚染などというのも,下界の営利を追う営みの副産物が上空に及んだものなのだから,これを俗塵と呼んでもさしつかえなかろうというものである。

 それはともかく,美しい星空は御神火の大島でも,アルプスの上高地でも仰ぎみることはできるが,眼を一たび地上にうつすと,このような身近な観光地は,雑踏と塵芥で俗化しきっている。俗塵から離れることを願う都会人たちは,秘境探訪とか離島の旅とか,観光の足をのばしていく。そのため,ここ数年はこういう意味で「島ブーム」とかいわれる。

かくも親しき赤痢 長崎 護
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 美しき日本の風土に馴じみ,われら日本人にこよなき親しみと愛着をもった赤痢菌諸侯も,ここ数年来は寄る年波を感じたのであろうか,とんと元気がなく,同胞の数は一路衰退の傾向をみせていた。ところが,昭和41年の日の出とともに,かれらも干支に因んだのであろうか,西に東に,北に南にと大活躍を始めた。都下東村山の文化村で,専用水道の井戸の中に浸入し,村を総なめにした事件は今なお記憶に新しい。かくして,東京都では昨年に比べて約3倍近くの赤痢患者の発見をみるに至っている。

 寄せては返す波のように,いつ果てるともしれない赤痢菌との葛藤の繰返しを見るにつけ,あるいは身をもってその渦の中に投げ込まれたりすると,何か,欠けているモノの数々を知らされる。私が,かつて保健所で経験した赤痢事件の1つをご紹介しよう。

悩みは果てなし 岡 惺治
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 A夫人は,毎朝何となく顔がむくんで困るという。一度,尿の検査でもしたほうがいいというので,保健所の成人病検診に出かけてみた。行った結果,血圧測定と心電図検査をしてくれたが,検尿は希望してもやってくれなかったという。

 B氏はある農村に住んでいる。東京の某大学が出張検診するというので,なかば強制的に行かされた。血圧でもはかるのかと思ったら,何の説明もなしにいきなり胃カメラをつっこまれ,ひどい目に会ったとうらんでいた。

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 公衆衛生のたそがれということがひそかにいわれはじめてから十余年になる。昨年末から今年の春にかけては,私の働いている東京北部でも,腸チフス,赤痢の集団発生が相ついでいる。また,すでにがまんできないほど大気汚染がひどくなっている町の真中に大きなごみ焼場をたてようとか,患者はベトナムから無検疫で運びこまれるから米軍野戦病院をたてようとか,さてはLPGの貯蔵所をつくろうだとか,たそがれがいよいよくらやみに移行しているといってよい状況がはっきりしてきた。

 たそがれがくらやみになれば次は夜明けがくるから,これは手放しでなげくことでもないだろう。草木は眠り,百鬼夜行するうしみつ時をながびかせず,夜明けの到来をはやめるためにはどうすればよいのか,これが今日の課題であろう。

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 昭和13年京大を卒業し,副手として内科に一時籍を置いたが,卒業時代に衛生学教室で,当時某県衛生技師の西川治郎兵衛先輩(広島原爆で不幸にして死去)の熱のこもった講話を聞かされ,公衆衛生行政に引き込まれた。その年の5月頃上京を促され,予防局の高野六郎局長,勝俣先生などの前に同僚と並ばせられ,試問を受けたことを記憶している。そして兵庫県勤務を命ぜられ,当時の兵庫県警察部衛生課に6月始め判任官(防疫医)として就職した。サーベルを下げた警部補の間にはいり,学生時代のステトスコープは机の中に入れて,ボヤーッと机の前に坐る居心持は何ともいえない気持ちだったことが今でも頭に浮かぶ。同室には後に各県の衛生課長,厚生省に帰任された優秀な先生方がおられたので,何とか坐っていられたのであろう。

 当時,赤松秋太郎課長の厳格な命令下で,神戸港湾の検疫や,港湾労務者の予防注射を海上の浮標の上で行なった経験は,現在の検疫所長職の私にとっても,昔のことを懐しく想い出される。県庁内では,主として防疫に追われていた。赤松先生は私達を将来のために育てようと考えられたのか,41年に東京の公衆衛生院の内地留学を命ぜられた。当時集まった支那,満洲,朝鮮のドクターなどと5階個室を貰い,第1回生として,林院長の下に,斎藤先生,川上先生,野辺地先生,亡き石川先生などにはじめて公衆衛生について教えを受け,楽しい1カ年を過ごした。

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 私が会社に勤務したのは,終戦の翌年の昭和21年7月で,名大医学部衛生学教室から,治療と予防を分離し,衛生関係の部課の設立という課題をもって赴任した。昭和23年7月に安全衛生課が発足したが,いち早くこのような課ができたことは,会社主脳部の進歩的な考え方があったことが大きく,私も純粋な気持ちで設立に努力したことをなつかしく思い出す。

 この夏でちょうど20年,ふりかえってみるといろいろのことがあった。戦争の後の伝染病,復員してくる従業員を中心に発疹チフスの対策」,こんなにしみる痛い予防注射はない」と文句をつけられつつも,全員に予防接種をする習慣をつけさせた。その後社宅を中心とした赤痢の発生,矢作川の上流まで発生源を求めて調査して予防対策をたてた。人手不足で,自分でDDTの噴射器をもって風呂場,更衣箱,便所をまわり,「先生自身がやられるのでは恐縮」と従業員や家族の人がすすんで手伝ってくれるようになり,そのうち年間の行事に発展して防疫体制の整備が完了した。

役人になった私 井出 そと江
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 はじめてK保健所にはいった年に生まれた子たちが,もう今年は大学入学の年齢になっている。あらためてあの頃のみずみずしかった仕事への情熱をなつかしく思い出す。なにしろ,担当地区K町の衛生問題を1人で背負ってたつ意気ごみで,片道1里余の道を毎日のように自転車でかけ回っていた,まだSMなど特効薬のないときで,戦争に疲れ果て悲惨な状態に陥ってしまった結核患者を訪ねては,言葉もなく涙ぐんでしまったこともある。何とか感染を防止しようという一念から,時間外にツ反応を持って接種しに行ったり,集団赤痢が発生すれば,井戸水の消毒から戸口調査まで,果ては井戸水とゴミの処理が不十分だからと住民と一諸になって自治会を組織したり,とにかく夢中になってとび回っていた。

 G. H. Q. の指導のもとに新制保健所として機構が変わってまもない頃,区役所清掃事務所と保健所と住民との懇談会があった。K町の赤痢多発の引揚者寮の小母さんとともに出席した。小母さんが熱心に発言しても,慣れない会合にはじめて出席したことと,区長や所長や偉い方々の前なのですっかり上がってシドロモドロ。たまりかねて,そばから"ゴミを毎日とりに来て頂きたい。何町に不潔地帯がある"などと発言してしまった。何とか解決のメドがつき,うきうきした気持ちで帰所してまもなく,所長から"なぜあんな発言をしたのか? あのような問題は環境衛生係に話すべきで君が直接言うべき筋あいではない"と注意された。

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 私が大学を卒業したのが昭和35年で,人生最後の臨床経験となるであろうインターンを東京の片田舎の病院で終え,無事に国家試験をパスして,大阪府に奉職したのが昭和36年のことであるから,早や5年間が夢のように過ぎ去ってしまった。大学入試の時と,専門課程に進む時との2度まで法学部へ進みたいという私の夢は,父の反対で果たせなかった。けれども,畑は少し違うが,一応曲りなりにも念願の行政機関にはいることができたようだ。しかし,この5年間,大阪府から厚生省にはいり,周囲の状況は若干変わったが,何をしてきたか,何にもしてこなかったような気がしている。私自身はわりあい楽観主義者であり,のんきなところから余り苦しかった思い出もない。そこで,さて私が大阪府にはいり,公衆衛生行政の第一線機関である保健所の仕事についての楽しい思い出を話してみよう。とにかく右も左もわからないままインターンを終え,まっすぐに行政にはいったわけであるから,誰かたよれる人がほしかった。さいわい,私が配属された保健所では立派な所長や諸先輩に恵まれ,所長にとってはわがままで世話のやけるだだっ子であったと思うが,私にとっては寄らば大樹の蔭とやらで,大いに保健所での生活を楽しんだものであった。

保健所の魅力 石館 敬三
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 毎年5月から7月にかけて保健所にインターンが実習にやってくる。この時期はオーバーにいえば,私にとっては梅雨よりも憂うつな季節である。というのは,実習を終えて帰っていくインターンの後姿をみて,十分に彼らをもてなし得なかった後悔や無力感に責められなかったことがないからである。このことは,私が何も責任を感じることはないのであるが,インターンより若干先輩の保健所の若い医師として残念なのである。これは保健所側にインターンを受入れ,指導,教育を行なう体制が極めて不十分なため,片手間の指導に終っているからである。現在は,職員の顔見世興行的講義でお茶をにごしている保健所が多いと聞く。これではインターンをして公衆衛生に背を向けさせることにのみ役立つのでないかと恐れる。しかしインターンの側にも問題がある。多くは保健所にインターン実習にくる以前に,すでに公衆衛生を疎外してかかっているように思う。インターン生に公衆衛生活動の現場から何かを汲みとろうとする積極的な姿勢が感じられないのも事実である。だからといって,指導が等閑にされてよいという理由にはならない。私は現在のような保健所のインターン実習は有害無益であるから廃止したほうがよいと思っている。やるとすれば,指導能力のある保健所を選んで小人数ずつ配置して,保健所のスタッフとして実務についてもらう。このほうがお互いのためによい。よく保健所に医師がはいらない理由が話題となる。

精神衛生2年生の回顧 鈴木 一男
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 精神衛生の仕事を担当してから,早いものでもう2年半ばかりになる。その間を今静かに回顧してみることも,読者諸氏には,何らかの参考になりはしないかと考えて,あえて筆をとった。

 就任当時(昭和38年10月)は,わが国の在宅精神障害者の実態調査の集計が終わり,全精神障害者数が124万人と推計され,精神病の中でも脳器質性のものが半数以上も占めていることを知り,前回に行なったデータと比べて,かなり特徴的なことがわかって異常な興味と関心を覚えた。まずこの調査結果の勉強からスタートすることができたことは,私にとって,まことにラッキーなことであった。一方では,その頃,日木精神神経学会を中心に精神衛生法の改正問題がやかましく論議されていた。また,学会ばかりではなく,日本精神病院協会では検討委員会が設けられ,活発な意見が交されていた最中であった。就任早々の私に相ついで法改正の必要性についての陳情と示唆が舞い込んだ。まだ精神衛生法の内容もろくにわからない私に,矢つぎばやの強談判である。いささか,ヘキエキしたことを覚えている。こうなってはまごまごしているわけにはいかない。

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 学院は昭和12年に発足して以来,時代とともに幾多の変遷を重ねながら医療従事者の養成に当たっている。担当部の1年間の教育内容・入学時・卒業時・卒業後の問題をご理解いただき,現場の指導をお考えいただきたい。毎年の例により,公衆衛生看護の第1時間めにpre testを行ない,それを中心として講義を展開しでいる。

 保健部卒業者81名(昭和38年度〜40年度)についてみると,

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 保健医療にめぐまれない地へ,学院卒業生のわずかな者が,力強く足を踏み入れる。

 彼女たちの意気込みにはたくましさを感じるが,一方地域の人達の要求してくるであろう多くのことを考えるとき,現在のままの保健医療のあり方ではどうしようもないものを感じる。第1につきあたるのは,医業との関係である。綜合保健活動が強く叫ばれている今日でもなお,現在の医療制度の中では,公衆衛生的に働こうとする保働婦活動とは一致しないものを持っている。

星の光に想う 奈倉 道隆
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夏の夜風に涼みながら,静かに空をみつめる。幾万とも数知れない星がまたたく広い宇宙,その宇宙の一角にあって,己の知らざる間に生を受け,己の欲せざる時に去っていく人間のいのち。……

 神秘な星の世界への憧れが天文学の起こりであったとすれば,無病長寿の夢もまた衛生学の始めと考えてよいだろう。それらはときに数千年,いや数万年の歴史をもつものと思われる。

家庭騒音 長谷川 豊
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 夏は夜半まで辺りが何かとそうぞうしい。むし暑さとそうぞうしさとで寝つかれず,つい睡眠不足になりがちだ。

 隣り近所の家々からのテレビ・ラジオの音,ピアノの音,子供の泣き声,飼犬の鳴き声,アパートや文化住宅では,廊下を歩く音,階段を上り下りする音,水洗便所の水を流す音など,気にするほどに気になって,不快指数はいやがうえにも上昇する。近所が気まづくなったり,ケンカさえはじまることもまれではない。エアコンディショニングのないわれわれ庶民住宅では,窓をしめきってはいられないから,暑い季節にはとくにこの種の問題が起こりがちだ。

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はじめに

 多くの国に,あるいは多くの衛生行政官は,今日,予防的,治療サービスの総合化一体化の問題に直面している。この2つの分野をお互いにまったく分離させることは,不経済であるとともに非能率的でさえある。しかし,発展しつつある国と高度に発展した国とでは,同じ総合化,一体化といってもその意味は若干ちがう。すなわち,前者では資格のある医師の数が少ないので,保健所などで同じ医師によって予防と治療が行なわれることが最も効果的である。後者では,医学技術の進展とともに予防および治療を含めた保健衛生の分野が高度に専門化し分化し,一方,そのサービスをうけるのは同一の人間であるため,健康増進から予防,治療およびリハビリテーションに至るまで,一貫したサービスが行なわれるような総合化の必要があるからである。

 この予防と治療の総合化の問題をひかえて,WHO西太平洋地域事務局では,地域内各国の参加を得て,本年2月15日から2週間にわたって,Integration of HealthServiceの課題のもとにセミナーを行なったので,この内容を中心にして,またWHOの種々の専門委員会で討議された事項などをも参考にしながら話を進めることにしたい。

アメリカ人の生活 山本 幹夫
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実質的格差はきわめて少ない

 繁栄した経済の中における健康な生活といえばすぐ誰にでも見当がつくことであるが,貧乏な生活の中の公衆衛生となると考えにくいかもしれない。米国の貧乏といってもわが国の場合にくらべれば,平均所得は5倍弱も高いから,貧乏とはいえないという人がいるかもしれない。しかし,物価は高いし,実感では100円が1弗ぐらいにあたるような感じであるから,平均実質所得からすると,低所得階層では,日本とそれほどかわらないことになるかもしれない。最低生活をするニグロの家庭が,衣食住からみると,日本のボーダーラインということになるかもしれない。少なくとも,家は日本の都会のそれよりは広いが,いろいろの面から他の多くのアメリカ人との格差がひどい。本人達にとってみれば,日本のボーダーラインの人達よりみじめに感じているかもしれない。ことに人種的差別があることは,何といっても大きな格差になっている。

 バークレー市(加州大学のバークレー校舎がある所)について,最初の約2週間,市の保健婦さんについて市内を家庭訪問したことは,アメリカ人の生活を直接にこの目で見,これらの人々と言葉を交わすよい機会だった。その時にこの市の約30世帯位を訪問することができた。

講座 地区診断—よりよい現場活動の展開のために・3

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 地区診断の前提条件として地区調査が公衆衛生の方法論として広く理解され実践されていることはよく知られている。前1,2回の講座で健康問題を発見するための技法が,公的,非公的な資料の分析から明らかにされた。今回は,前2回の論旨を受けて,さらに社会学的な観点から展開した。これは地区の全貌を理解し,把握するための社会的,文化的特性の分析から,生活構造,生活様式を明らかにし,その中から地区診断を行なうための効率的な変数をみつけ,特定問題の診断に利用しようとするものである。こうした一連の地区の理解のための諸技法が,各現場の活動家の間で生かされ,よりよい活動の展開のための一助になれば幸いである。

厚生だより

新しい性病予防対策,他 Y
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 近時世界各国において性病の増加が報告されている。1964年のWHOの報告によると,梅毒は72.4%,りん病は47.7%の国または地域において患者の増加が認められるといわれる。

 わが国においても,昭和40年6月に開催された日本皮膚科学会総会で若年層における早期顕症梅毒の増加が議論され,厚生省に対して性病対策の新しい展開が要望された。その後,昭和40年7月に売春対策審議会(会長菅原通済)に「性病予防対策に対する意見」がもとめられ,11月29日に審議会の答申がおこなわれた。

ニュースの焦点

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 電車に乗っても,街へ出ても,さらには,美しい自然の山を歩いても,不愉快な事にぶつかることの多いこの頃である。眉をひそめ--いろいろの程度はあるが--たくなるものから,自分が何か直接,間接にそれに関連をもっているだけにどうにもやりきれなくなるものまでさまざまである。世の中が何か狂っているような気がするのは,些細なことを余り気にしすぎるせいでもないと思うのだが。例の腸チフス事件から予防接種の過誤,さらに日赤産院に至る一連の事件など,それぞれ本質的に異なる事件ではあっても,"医"についての世間一般の見方がきびしくなり,報導関係もセンセイショナルな見出しで報導している矢先,6月17日の各紙は,一せいに日赤中央病院での救急患者の処置について,満員という理由でタライ廻しの結果70才の婦人が死亡したと大きく報導した。またか,との一語につきる。"医"に携わるものとして何ともやりきれない気持である。"医"のモラルの問題だからである。

 消防法が改正されて救急業務の定義づけがなされ,それをうけて厚生省令で救急病院の基準が示された。一応法体系は整ったかにみえるが,実情はさっぱり法の精神通りには動いていない。元来救急でない患者はないはずである。しかし,その中でも特に緊急を要するもの--その判断は誰がするかという問題はあるが--について,従来,消防庁がサービス業務として救急車をもち,指定病院へ搬送していたものである。

追悼

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 4月27日,研究室の電話のベルがけたたましく鳴り響いた。東京からの電話である。二木謙三先生今朝ご他界されましたとの悲報,聞いた瞬間『巨星地に落つ』『稀にみる偉大なる学者を失った』『日本伝染病学会の中心人物が奪われた』等々の雑念で胸が一杯になり,涙も出ないほどの驚きと悲しみであった。

 実は3月31日,福岡市で開かれた日本内科学会評議員会の席上,伝染病研究所附属病院長北本治教授から『3日ほど前二木先生が高熱で肺炎であったので,ご老体でもあるからとりあえず伝研病院にお預りし,心残りであるが来福した』とソット聞かされた。現代の治療医学の進歩と,肺炎という病名を聞いてひとまず安心した。

ニュース

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 去る6月2日,日本医師会館講堂で第37回東京都衛生局学会が開催され,400人ほどの参会者があり盛会であった。演題は41題,発表者は保健所,病院,研究所,乳幼児施設など衛生局所管のあらゆる事業所の医師,歯科医師,獣医師,薬剤師,保健婦,助産婦,監視員などまことに多彩である。特に今回は,特別発表として輸血問題,特に"外科領域における輸血","血清肝炎とその予防","交換輸血"の3題があった。

 この学会は,昭和22年,まだ終戦後の混乱のさなか,初代衛生局長小山武夫博士(現東京都済生会病院長)が,衛生行政の科学的な基礎づくりを念頭に創設されたもので,爾来,毎年春秋2回継続されているもので,衛生局長を会長とし,局内各部長と各事業所長から選ばれた理事と局内技術課長の幹事によって運営されている。事務局は業務部普及課が主管し,正規に予算も計上して,そのつど充実した学会誌も発行している。

基本情報

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公衆衛生
30巻8号 (1966年8月)
電子版ISSN:1882-1170 印刷版ISSN:0368-5187 医学書院

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