随想 明日を担う公衆衛生
まだ気は若い
平野 義夫
1
1徳島保健所
pp.418-419
発行日 1966年8月15日
Published Date 1966/8/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401203294
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「空襲のため電線が街路に垂れ下がっているから気をつけろよ」とおどかされて,昭和21年春東京虎の門に,時の文部大臣前田多聞さんを訪ねて,インターン制を廃止してほしいと直訴しようとした。当時金沢医科大学4年生だった学友宗野君と私の姿である。医師になろうとして昭和17年10月大学にはいった。卒業すれば当然免許証はくれるものと思っていたところが,20年夏の敗戦,占領軍が関係法を変え,入学済のものでも実地習練が必要なインターン制度ができた。まったくあてがはずれた。物価は暴騰する一方,入学時,月15円もあればよかった下宿代が,毎月,何千円も生活にいるのとあって,一刻も早く卒業して,すぐにでも免許証を得たいのは人情の常。一体,誰がこんな無定見なインターン制度などを始めたのかと無暗に腹がたつばかりだった。精神科の秋元波留夫教授に相談すると,意見は陳情して表明すべきだと言われた。大学病院の女医さんからは「前田多聞大臣は私の友達のパパで,とてもものわかりがいいわよ」などと言われて,ふらふらと上京し,直訴に及んだわけである。意外にもすらすらと大学教育局長の田中耕太郎さん(後の最高裁長官)に会わせてもらい,あらましを話すと,それは課長の方へ回れという。春木とかいった大学教育課長は,ぬらりくらりと,しまいには「君ら!ピストルがこちらを向いているのを知らんのか」と苦笑いしながら言う。
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