理学療法と作業療法 20巻1号 (1986年1月)

特集 理学療法と作業療法20年の歩み

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 Ⅰ.20年

 「理学療法と作業療法」もいよいよ20周年を迎える.さきに日本リハビリテーション医学会,東京大学病院リハビリテーション部,それからわが国最初の理学療法士(PT),作業療法士(OT)の学校である清瀬の国立療養所東京病院付属リハビリテーション学院が相ついで20周年の催しを営んだからわが国の近代リハビリテーション(以下リハと略す)がどのような角度から眺めても20年の年輪を重ねたといっていいことになる.ことに本誌の創刊の企画に加わり,いくらか危ぶみながらその門出を見守ったものとして感慨は少なくない.

 はじめの10年ほどはPT,OTの数がなかなか増えずPT,OTが金の卵としていささか甘やかされた時代であったといっていいかもしれない.医科大学にPT,OT学校を附設してもらおうとしても各大学からの新規事業要求の中に顔を出さないから文部省としては手の打ちようがないという返事が返って来るし,地方自治体に設立してもらおうとして厚生省が補助金制度を造っても東京都が先鞭をつけたあとはどこからも名乗が上らず,制度そのものが立消えになってしまった.厚生省が自分で作っていくしかないと諦めていた.

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はじめに

 1966年,理学療法士が行う理学療法業務がスタートして以来,わが国のリハビリテーション医療における理学療法について,その現状と問題点について検討を加えることは意義のあることである.

 この20年間に,理学療法をとりまく状況は社会の変容とともに,大きく変化し,理学族法そのもののあり方について問い直すことが必要となっている.

作業療法20年の歩みから 矢谷 令子
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 今回,作業療法20年の経過を辿るにあたって今まで,あまり触れられずに来た作業療法に関する初期時代のこと,初期時代の外国人貢献者をご紹介する.また作業療法士の育成に期待をかけて下さった諸氏のコメント数点をとりあげて現在の情況を報告する.作業療法全般,かつ具体的内容に言及したものではないため,ご了承戴きたい.

<随想>

私の歩み 石橋 朝子
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 20年といえば二昔の余になる.リハビリテーションの面から,この間を振り返るならば私にとってはおよそ,3っのエポックに画されると思う.その一つは北海道に発生した未曾有のポリオ禍であり,その二はPT・OT法と国試制度であり,その三は札幌医科大学衛生短大発足の三点である.以下に順を追って触れる.

 まず最初は昭和35~36年にかけて北海道夕張に端を発したポリオ旋風で,その惨状は,またたくまに北海道全域に広がった.当時の母親達によれば戸口には小児麻痺の家と貼紙され,クレゾールで真白に消毒された家々から隔離病棟に運ばれた児らはべッドが足らず,陸にあがったマグロのように廊下に並べられたという.中には疎開した先で罹患した子もいる.生ワクチンやガランタミンに明け暮れた日々であった.やがて,これら患児の守る会が全道規模で発足し.医療機関はもとより,政・財界の強力なバックアップのもとに療育対策が次々と打ち出されていった.その一環として北海道小児まひ財団が設立され,これを毋胎として療育技術者(機能訓練士)養成が日本整形外学会認定のもとに進められ,道内10ヵ所に療育施設(マザース・ホーム)と20名の要員が配された.私は4期目の受講で芦別市に配属された.焦眉の急とはいえ,道内有数の大学教授らによる408時間の受講内容は今にしても濃厚過密なスケジュールであったと思う.またその理念と体系は北海道独自の漸新な療育体系で全国から多くの参観者が訪れた.

私の歩み 今井 章夫
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 本誌創刊20周年を迎えられたとのこと私はこれまで一読者にすぎなかったが,はからずも,本誌に寄稿する機会を与えられたのを機に「私の歩み」を振り返り今後の励みとなれば幸いと筆をとってみた.

 日本三大名園の一つ「兼六園」に隣接した国立金沢病院に就職したのは丁度整形外科が開局された34年4月であった.当初はスタッフや設備不足でもあり,助け合いながら一丸となって診療に精を出していた.若さと好奇心も手伝ってよく医師の助手をしながら見学や臨床講義を聞くことのできた一時期が,私の足もとを固めるためには恵まれた環境であった.やっと病院の中にうちとけられるようになった頃,降って湧いたようにリハビリテーションという言葉がとびだし,更に難しい理学療法士の国家試験があるということで,当惑し重苦しい日々が続いた.しかし軟式テニスが盛んな頃でかえってそれに夢中になってしまい汗したときを思い出す.不勉強ではあったができる限り臨床の場で試験に役立つように心がけたことが,幸運にも理学療法士資格の取得に結びつき,その時の喜びは今も忘れることはできない.欲をいうようであるが,作業療法士の受験資格を得ていながら挑戦しなかったことはいささか残念であるが,石川県に初めて柔道整復師学校が創立されたその第一期生(夜間)として免許取得したことが業務の一助にもなっている.

私の歩み 大内 二男
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 1966年3月に国立療養所東京病院附属リハビリテーション学院を卒業し,同年4月より神奈川県立ゆうかり園で理学療法を行っているのが私の20年の歩みである.この間健康に恵まれ,多くの肢体不自由児と共に楽しく過ごして来られたこと,同時に私を指導し,励まして下さった恩師,これらの人達との出逢に深く感謝している.今回私が脳性麻痺児の理学療法を業とするため心から指導して下さいました,ブルメンサール(Miss Edna MBlumenthal)先生との思い出の一部を述べてみたいと思う.

 私が就職した当時,浜田青志園長が脳性麻痺児の療育のあり方,そのための新しい専門施設の構想について話され,夢を抱かせて下さったが,私は自信が持てなく,3年間は努力してがんばってみようと自分なりに期限を定めて心の安定を計っているにすぎなかった.卒業と同時に後輩の臨床実習指導も担当しなければならない立場に置かれてしまい.追い立てられる日々のうちに3年が経ってしまった.そうしたある日,ナッシュ(Nash)先生が当園を訪問されたので,もう少し臨床研修をしてみたい旨の相談をしたところ,私の意を理解されて早速米国PT協会に推薦状を書いて下さった.間もなくノースカロライナ脳性麻痺病院で研修させても良いということなので,リハビリテーションディレクターのベルメンサール女史に手紙を書くようにとのことであった.

私の歩み 神林 直二
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 「現在のPTでは人数も少なく,中味にも問題があるので2級PT? を作らなければならない.」以前からの動きであってその背景は理解できるが,また再燃してきているようだ.一部の医師や病院経営者も言い出してきた.大変な問題である.このことにPTサイドは全く責任が無いと言い切れるだろうか.

 私はPTはみな立派だと信じている.ところが極めて少数のPTであろうが,顰蹙を買っている噂を聞くと仲間として恥しい.途方もない高額な給料や支度金を要求したり,多少の専門知識やテクニックを絶対とばかりに振り廻して,同僚や果ては医師までもないがしろにしたり,自分がPTとしてその施設で重要な場に居るにも拘らず,極めて簡単に他施設へ移って折角の期待を裏切ったり(卒後教育の不備なために,止むを得ず他施設へ移って勉強しなければならない事情やより良い生き方や生活を求めて移動するなど,充分理解しなければならないこともあろうが),心の痛む話である.

私の歩み 松沢 博
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 理学療法士としての20年の歩みを振り返るとき,どうしてもその思いは東京・清瀬町(現在は市)の松林に囲まれたリハビリテーション学院につながる.昭和38年5月1日の入学式の様子はすでに紹介されたことであるが,砂原茂一学院長が古い岩波文庫の「蘭学事始」をとり出してその一部を朗読された場面であり,また,昭和41年3月の第1回卒業式での“パイオニア精神を忘れずに……”の言葉である.新入生の多くがそうであったと思うのであるが,私も理学療法やリハビリテーションということを目で見て確かめ,人に問い理解を深めることもできないまま,新しいものへの希望とともに大きな不安を同居させながら入学式にのぞんだ.古い木造の建物を改造した教室一つと事務室一つ,正面入口を入って右に折れて教室へ,左に折れて襖で仕切られた学生宿舎,窓を開くと隣はボイラー室,わが国で始めての養成校誕生であったが,意欲をかりたてる雰囲気,環境とは全くかけはなれた場に立たされて,いったいこれからどうなることなのか……,新しい事の始まりとはこんなものなりかとも思った.

私の歩み 宮本 重範
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 私が理学療法士として歩んで来たこの16年間を顧みると,その中の11年間は海外生活であり,生き方についても,PTとしての知識や技術に関しても米国やカナダでの体験が現在の私の糧になっているような気がする.昭和46年12月27日,未だクリスマス気分のさめやらぬクリーブランド空港に降りたったのがつい先日のように思い出される.

 九州リハ大の学生時代は今日のように洋書以外はPTの専門書もなく,専門科目は総て米国人による授業だったので講師も学生も費やしたエネルギーは大変なものであった.しかし,この苦労の時期が過ぎた頃には,またどうしても本場の理学療法をこの目で確かめたいという気持が高じアメリカへ渡った.福屋靖子,鎌倉矩子の両先輩に続いてHighland View HospitalのPT卒後研修コースに入り得たその時の喜びと緊張感はひとしおであった.この病院はCase Western Reserve大学の教育病院でもあり,また米国のリハビリテーション医学のメッカでもあり系統的な総合リハビリテーションについて学ぶことが出来た.当時,Long教授の下には荻島先生に次いで石神先生がリハ医として研修されておられ,先生の精力的な研究姿勢に大いに刺激された.嬉しいことには,数か月後に当院での短期研修のため細田多穂氏も加わり,日本のPTの将来構想について論議を交える機会を得た.その時の情熱が今日まで細田多穂氏を協会の牽引車として走らせ,私を教育畑へと方向づけたのかもしれない.

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 昭和37年4月,愛媛整肢療護園に就職してから,早いもので今年4月には在職24年になろうとしている.

 当時,当園入園CP児は在園児の約20%を占るにすぎず,そのほとんどの者は歩行していた.歩容は決して良いものとは言いがたく,沢山の拘縮・変形を持ち合せてはいたが…….その中にあって,今も私の脳裏から離れない患児がいた.その患児は特有な呼吸パターンを呈しており,痰の喀出をするのに自分の指を喉の奥深く挿入し刺激を加えて行っていた.そのありさまを見ると胸をしめつけられた.だがその思いこそが今日の治療に強く影響を及ぼしていると思う.

私の歩み 澤 治子
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 OTとしての私の歩みをふり返ってみると,大きく3つの時期に分けることができる.

 第1の時期は,国立身体障害者更生指導所(国立リハの前身)に就職し,OTの資格を取得するまで(昭和31年~42年),第2の時期はOT資格取得後,国立身体障害者リハビリテーションセンターを退職するまで(昭和42年~58年),そして第3の時期は,退職後,島根県に移住し,国立療養所松江病院脳卒中デイケアでOTとして仕事をしている現在である.

私の歩み 松本 妙子
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 「十年ひと昔」というが,私のOTとしての歩みは,ふた昔になる.リハビリテーションという言葉を耳にしたのは,まだ栄養士だった昭和35,6年頃,機会あって都立松沢病院を見学した時であった.その後,料理教室や野外食など患者さん達と生活を共にする中で,リハビリテーションとは何かを知りたくなった.そのような時,清瀬に国立療養所東京病院付属リハビリテーション学院が創立され,清生園から内地留学することができた.入学して初めてOTを知った.卒業後,精神科のOTとして今日まで,唯ひたすらに患者さん達と共に歩んできた.

 最初は,作業療法をすればするほど,赤字が増える,という医療点数化されていない苦難の状況下であったが,病院内は患者のリハビリテーションについて積極的にとりくみ,作業療法はその主役であった.施設も職員も新しく,毎日が新たな出会いであり,すべてが勉強の場であった.作業種目も院内作業から院外作業へと広がりをみせ,職員も徐々にその数が増えていった.また,清瀬のリハ学院実習生の受け入れも昭和44年から始まり,院内での医師,看護者,CP,PSW,OTなど医原従事者間が,組織的に機能をしはじめ,病院全体が活気に溢れた時代であった.

私の歩み 森下 孝夫
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 3年間の療養生活中に,病気がいかに人々の運命を変えてしまうかを如実に見聞きしたことが,後に職を変えてOTになる下地となったと思う.退院後,私立の精神病院へ就職し,昭和42年特例で第2回の国家試験を受けて作業療法士となった.作業療法の盛んな病院であったが,OTになって後はそれらの作業が単なる使役とマンネリ化した内職の如くに見えはじめて次第に看護科との軋轢が生じはじめた.驕る心があったに違いない.

 昭和43年のじぎく園に紹介された.初めの1年間は理学療法室で指導を受けた.昭和44年OT科開設にあたって九州労災病院と足立学園で1カ月間研修させて戴いた.初めて本格的な作業療法に接した.米倉,山口,広重,ヴァルガスら諸先生から得たこの時の印象が刻印づけされて後々まで影響を受けた.

私の歩み 山口 鞆音
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 私が九州労災病院に就職したのは皇太子御成婚の年であった.小倉市街から別府への国道10号線を10kmほど入った所で左山手に折れると,足立山麓の緑に包まれて病院があった.私は元来看護の道で働き,その後理学診療科へ移り,いま作業療法とのつき合いは25年を過ぎた.“リハビリテーション”も当時の私の予想をはるかにこえて社会へ浸透し,丘の斜面に広がっていた木造の病棟も鉄筋に変り周囲は民家に埋まり賑やかになった.

 人生にはいくつかの岐路がありその分岐点に立って選択を迫られるが,振り返るとその折々に近くで私を支えて下さった人がいたことに気付く.ある時は師であり,先輩・友人それに多くの患者さん達であった.

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 「理学療法と作業療法」創刊20年とのこと,過去をふり返ってみると早いもので,OTという職業を目新しいと思っているうちに気がついてみると,20年という歳月が経っていた.

 新年には「今年こそは」と何らかの目標をたてるが,なかなか実行出来ず今日まで来たような気がする.

とびら

心と身体 三好 宣明
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 この道に入ってから早くも20年近い月日が過ぎようとしている.医学部の学生時代には,心と身体の両者の関わる診療科に進もうと思っていたのだが,国家試験に受かったところ,実際には精神科に進んでしまい,心の病のみ扱うようになってしまった.とは言うものの,「初心忘るるべからず」ということなのであろうか,大学の医局を知らずに精神病院を歩いて来た筆者にとり一番抵抗感のある言葉は「心気的」という言葉である.たびたび患者が身体的訴えをしてくる時に,精神科医はしばしばこの一言で片附けてしまうことが多い.その訴えをきちんと処理する医師でも,その検査結果が異常なしということになると,再度その訴えがあった時には「心気的」という言葉を使ってしまうのであろう.かくのごとく,心の病を扱う精神科医は,「心」の方に気をとられて身体の存在を忘れてしまい,心と身体を切り離した発想をしがちである.かく言う筆者も,常日頃,「人間とは,心と身体が一体となった存在である」と考えるようにしているつもりであるが,ともすると前述のごとき失敗をすることがある.

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 Ⅰ.はじめに

 人間の歩行は,ある場所から他の場所へ,最少限の重心上下動と消費エネルギーで,外観上見かけよく安定して前進する運動で重要な日常基本動作の一つである.一見単純に見え,内部で行われている複雑な制禦を感じさせないが,実際は神経筋系の微妙な協調運動のもとで,安定した立位平衡が失われたり,得られる現象が起こっており,これは,長年くり返しの学習によって獲得されたものである.

 T. Popovaは,成長課程の子供の歩行を研究して,三つに分類し,成人歩行パターンは,7歳から9歳になって獲得されると述べている3).この年齢まで,子供は,自分の神経筋骨格系の成長に伴う変化を修正し,より良い神経制禦を発達させているが,一度学習されてしまうと,ほぼ他人と似たものとなり,人それぞれ,外部から区別できる程度の特徴は,あるが,他人と比べその差はわずかで,正常歩行として,ある範疇に入ってくる2).進化課程から見ると,初期の四点歩行で,重心は四本の支持足で囲まれた床面内にあり,体は後足の押しと前足の引きにより前進する.

 前足の支持機能を放棄した二足歩行は,支持足面に重心を持ち,上肢は骨盤上に躯幹のバランスを保つのに役立ち,下肢が移動機能をはたす.前進は,足と床面の間に働く床反力が,水平と垂直方向に加速するよう働くために,床面と斜下に下肢を動かす必要がある.そのため,下肢は伸展され重心は,水平垂直分力で,上前方へ移動する,従って,その歩行は,前進挙上の複合運動といえ,二足歩行では,交互に推進と制動が行われている6)

プラクティカル・メモ

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 1.はじめに

 脳卒中片麻痺患者の多くは杖歩行となるが,患側上肢の能力は低く患手に物を持つことは多くの場合困難である.特に歩行時,健側上肢は杖を使うため物を持ち歩くことはできず,小さな物でも持ち運びに苦労することが多い.持ち歩きが可能か否かはADLの自立に重要な意味を持つと思われるが,院内ではその必要性が低いこともあり,見過ごされがちである.

 既に紹介されている自助具としては,ショルダーバッグが一般的であるが,今回若干の改良を行い,大きな物まで入れられ,買物や排泄など立位での健手の使用時に杖の置場に困らないよう工夫したので紹介する.

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 1.はじめに

 脊損患者の上肢筋力の強化法として,もっとも一般的に用いられる運動にpush up訓練がある.当院でも従来から,握り手が丸棒によるpush up台を使用していたが,とくに,頸髄損傷の患者のpush up訓練の際,握り手の丸棒がつかめなかったり,また,push up台そのものがぐらついて,安定した訓練を行うことができなかった.

 今回,これらの問題点を改善するために,我々は,握り手と台そのものを固定化するとともに,さらに,握り手部を丸棒の他に新たに平台を製作して,安定した訓練が行えるpush up台を考案したので報告する.

プログレス

白血病治療の進歩 大野 竜三
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 近年の白血病治療の進歩には目覚しいものがあり,小児急性リンパ性白血病(ALL)においては90%以上が,成人急性骨髄性白血病(AML)では70%以上が,白血病細胞が末梢血・骨髄より消失し,正常血球成分が回復する完全寛解に導入出来るようになった.完全寛解到達例のうち,小児ALLでは約50%が,成人AMLでは約20%が5年以上の長期生存をするようになった.また,化学療法では長期生存の期待出来ない症例には,組織適合抗原(HLA)の一致する兄弟姉妹からの同種骨髄移植や単クローン抗体を利用しての自己骨髄移植療法が行われ,良好な成績が得られている.

 従って,白血病は治癒可能な悪性腫瘍であるので,治癒を目指した治療を行う時代となっており,また治療成績も治癒率において語られるようになってきた.しかしその治療を完全に遂行するためには,高度の骨髄抑制をもたらす強力な治療が必要であり,顆粒球減少に伴う重症感染症や血小板減少による重症出血等の合併症は必発するので,その治療遂行は容易ではなく,血球分離装置等の完備した専門施設にて治療さるべき疾患であることには変りはない.

インタビュー PT・OTの世界

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<すでに7年以上も保健所で専任PTとして活躍されているわけですが,どのようなキッカケで保健所に入られたのですか>

 山田 在学中から私は脳性麻痺(CP)に興味を持っておりました.卒業してすぐ,長崎市民病院に勤務したのですが,同病院は一般病院ですからいろいろの疾患を持った患者さんが来ます.しかし私の関心は自然にCPに向いたことは確かです.しかしCPの治療に暫く関わるうちに,その治療方法がそんなに簡単なものではない,ということを悟りました.そして,「CPについてもっと勉強しよう」と決心しましてそこを退職し,聖母整肢園(現・南大阪療育園)へ行きました.CPの治療方法を勉強するには最低3年間は勉強が必要だ,という

 ことで3年3カ月,聖母整肢園におりました.

あんてな

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 いわゆる宇都宮病院事件をきっかけに,厚生省は入院患者の処遇に関するガイドラインを検討し,この10月に発表した.

 「通信・面会」,「保護室の使用」および「作業療法」の3項目について検討がなされたが,今回の発表は「通信・面会」のみに限定され,他の2項目は引き続き検討するとされた.このガイドラインは,精神科の病院に入院している「患者の人権を保護する」という趣旨で作成されている.「精神病院入院患者の院外にある者との通信および来院者との面会は,(中略)原則として自由に行われることが必要である」で始まるガイドラインが示すように,憲法上保障されているはずの信書の自由さえ侵されている,あるいは侵されかねないという状況が,いまだに精神病院には存在しているわけである.

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はじめに

 手指運動巧緻性を定量的に評価する手段に関しては既に多くの方法が試みられている2~4).しかし,その中で手指動作のみを単独に捉えたものは少なく,むしろ手指の運動に上腕の動作が加味されているため,上肢の総合的な運動巧緻性を評価していると考えられるものが多い.また測定項目が分析的であるため,却って煩雑となり臨床においては実用的でないと考えられるものもみられる.

 そこで,著者は脳卒中後片麻痺患者において,手指のみの運動巧緻性を定量的に評価する手段として数取器による手指タッピング動作を取り上げた.今回は母指による10秒間当りのタッピング数を運動巧緻性の指標として検討した.その結果,数取器によるタツピング数の測定は手指運動巧緻性を定量的に評価する手段として有用な方法であると考えられたので,その成績を報告する.

インタビュー

Janet M Hirata先生に伺う 冨岡 詔子
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 本誌19巻11号(1985年11月号)で,Tali A Conine先生のインタビューを掲載致しましたが,Janet M Hirata先生もConine先生と共に国立療養所東京病院付属リハビリテーション学院創立20周年記念式典の特別講演者として来日されたのでインタビューさせて頂いた.

 Hirata先生は,地味でコツコツ仕事をなさる,とても謙虚なお人柄で,同学院学生から随分,慕われたと聞いている.同学院,創成期の思い出からOT哲学まで,今回のインタビューでも随所にそのお人柄が伺える.インタビュアは当時(1967年~1970年),Hirata先生と共に同学院で教鞭をとられたことがあり本誌編集委員でもある冨岡詔子氏にお願いした.

 なお,Hirata先生へのインタビューの機会を与えて下さった,同学院同窓会ならびに実行委員会田口順子女史に深謝いたしたい.(編集室)

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 整形外科手術後療法は,セラピストにとって簡単と考えるか難しいと考えるかのどちらかになり易い.テクニックは沢山あるが特殊なものは少なくその意味では簡単であろう.しかし病態を正確に把握して後療法の時期・強度・量・方法などを適切で最高にということになると大変難しくなる.過去にそれらのことを的確に纒めた成書になかなかお目にかかれなく,また千差万別の個々の症状を基にしていちいち述べることは至難であろう.ただ最近の整形外科の文献は,以前よりも後療法について述べられる傾向が強くなっているが,それだけを取り上げて纒めたものとして本書は特に意義がある.

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文献抄録

編集後記 上田 敏
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 1986年の新年おめでとうございます.20年前の1966年は日本のPT・OT界にとって記念すべき年でした.この年の3月,わが国最初のPT・OT校である清瀬の国立療養所東京病院付属リハビリテーション学院から19名(PT15名,OT4名)の第1期生が巣立ち,2月にはその人たちと特例受験の人たちを対象に第1回のPT・OT国家試験が行われ,日本最初のPT・OTが,誕生したからです.その年の7月にはPT協会,9月にはOT協会が共に産声をあげました.共に小人数の会員での出発で,特にOT協会の設立発会式の前夜は台風で,まるで嵐の中を歩む苦難の前途を思わせる状況だったことを昨日のように思い出します.

基本情報

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理学療法と作業療法
20巻1号 (1986年1月)
電子版ISSN: 印刷版ISSN:0386-9849 医学書院

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