公衆衛生 50巻1号 (1986年1月)

特集 公衆衛生50年の回顧と展望

母子保健の回顧と展望 林 路彰
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■母子保健の変遷

 母子保健の理念は本質的には変わらないはずであるが,国の施策を中心とした母子保健活動は,時代とともに大きく変動してきた.わが国における活動の歩みをたどってみると,古くは貧困家庭のような特定の妊産婦や乳幼児の救済という消極的な慈善保護事業から出発し,種々の起伏を経て,すべての母子の健康と福祉を目的とした積極的な保健福祉対策へと転換してきた.

 たとえば,1900年ころの軍備拡張と産業革命によってもたらされた労働者層の窮乏化に対して,母子の慈善救済事業の一つとして無料産院(1891)や慈善小児病院(1910)が設けられた.その後は異常に高率であった乳児死亡をいかにして改善するかに主眼がおかれ,内務省の保健衛生調査会が小児保健所の設置案('26)を建議し,大都市の一部に実現をみたことは特筆に値いする.

母子衛生50年の回顧と展望 丸山 博
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■はじめに

 小児保健の課題を与えられたが,これは林路彰君の方が適任であり,また大阪大学の退役者の丸山博よりも新進現役の東京女子医大の丸山博教授(小児科)が適任なのにと,編輯子の手違い(?)を遺憾とするが,病臥中のため今更どうすることもできない破目になってしまった.

 「公衆衛生50年の回顧」なら,私にとっては,乳児死亡とPerinatal Death,また死産・妊産婦死亡と一連の研究が戦前10年にわたる大阪大学衛生学の梶原三郎先生のもとでの成果であった.戦後と戦時中にその業績を世に問うたが,将来日本の展望については,常識以上には今のところ出られそうもなく,殊更に言うことはない.しかしいわゆる発展途上国の人口問題究明には,ふるい時代の研究でも,それ相応の利用効果があることは明らかである.今その実証的研究が進められている.

学校保健の回顧と展望 川畑 愛義
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■戦前までの学校保健

 学校保健の歴史を遠くさかのぼれば,学制の発布された明治5年以来のことになる.

 明治初期においては,コレラ,天然痘の伝染病予防,学校設備の衛生,学生・生徒などの休退学や病弱化の防止対策が主たるものであった.これに引き続き,明治後期においては,学校清潔法,学校医,学校伝染病予防,身体検査などに関するもろもろの規定が相次いで制定され,学校衛生の基礎が一応固められたのである.

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■はじめに

 筆者は昭和23年から44年まで労働衛生行政に直接関与したが,それ以後は関係筋に調査研究その他を依頼されたり,意見を求められたりして今日に至っている.

 従って,筆者に課せられた標題のような報告をまとめるのに的確かどうかは疑わしい.

結核対策の回顧と展望 染谷 四郎
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 わが国に初めて結核予防法が制定されたのは大正8年であったが,この法律は昭和26年に新しい結核予防法が制定されるまで続いた.その後,度々法律改正が行われ,今日に及んでいる.この間の結核予防対策の変遷を振り返ってみたいと思う.

結核行政の回顧と展望 山口 正義
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 今から50年前,昭和10年前後のわが国の結核は,いわゆる国民病として広く国民の間に蔓延し,結核による死亡は人口10万に対して200以上を数え,常に国民主要死因の第1位を占め,15歳から29歳までの青少年の死因の半数は結核であるというように,誠に由々しい状態であった.

 当時の結核行政は,結核菌に汚染した家屋,物件の消毒,結核患者の隔離,旅館,理髪店の従業員等結核を伝染させる恐れのある職業に従事する者,いわゆる業態者に対する健康診断,また特に必要と認める地方公共団体に結核療養所の設置を命ずる等の事項を盛りこんで大正8年に制定された結核予防法を基とし,更に,昭和9年に保健衛生調査会から内務大臣に答申された結核予防の根本対策,即ち,結核病床の増加,結核予防相談所の普及,結核回復者のための特別保護施設の設置,幼少年者のための結核発病防止の施設の設置,結核に関する知識の普及等を骨子とする諸施策が実施されていたが,昭和10年以降,結核死亡者数は増加の一途をたどり,昭和14年には人口10万に対し216となった.

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 急性伝染病猖獗の頃を回顧し,近年におけるその変貌について,この頃私の思うこととして機会を見つけては書いたことがある1〜4).実際わが国の急性伝染病は近年すっかりその様相を変えてしまった.

 病原微生物学が確立したのは19世紀の後半である.コッホが結核菌を発見したのは1882年であるし,コレラ菌の発見は1883年,エベルトによるチフス菌の最初の記載は1880年とされている.北里柴三郎が日本政府によってドイツに派遣されたのは1885年11月で,コッホの門に入って細菌学,伝染病学の勉強を始めたのは1886年であった.1891年帰国した彼は大日本私立衛生会において伝染病研究所を創立し(1892年),これよりわが国では病原微生物学と伝染病学の研究と活動が始まったと考えてよいであろう5)

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 環境衛生は「人間活動と環境の相互作用を研究してその問題解決を探求する人間環境問題解決志向型科学」であるが,この50年間に環境衛生→環境保健→環境科学とその裾野を拡げ,深さを増して多くの関連分野を持つ学際的領域にまで発展してきた.

 日本聯合衛生学会に出席したのが昭和8年だからかれこれ50年になる.座長に横手千代之助,竹内松次郎,田宮猛雄(東大),戸田正三(京大),梶原三郎(阪大),大平得三(九大),近藤正二(東北大),井上善十郎(北大),草間良男(慶大),及川周(新大),矢崎芳夫(慈大),三浦運一(満大)らが居並ぶ中で発表し,よく質問した自分を顧みて紐怩(じくじ)たる思いである,50年間を第1期(昭和8〜20年),第2期(昭和21〜30年),第3期(昭和31〜40年),第4期(昭和41〜50年),第5期(昭和51〜60年)に区切って回顧する.

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■衣服

 衣服は気候風土,生活習慣に合わせて長い間に創られ,それぞれの国,地域に独得なものである.衣服の目的には衛生的な役割と装飾などの社会的役割がある.衣服の衛生的な役割を果たすためには被服材料として気候調節,身体の保護,作業能率増進などの面から種々の性質が要求される.また衣服の健康発育に及ぼす影響としては衣服重量,衣服圧,被服加工処理剤が問題になる1).従来の衣服には種々の欠陥があったが,敗戦後には新しい繊維材料の出現と生活環境の改善によって,軽くて保温性があり,動作が楽にできる被服材料が得やすくなり,また冷暖房の発達により衣服による気候調節も楽になった.しかし,他面,被服加工処理剤による皮膚障害が起こった.

 昭和時代,日本の満州国,南方への進出により陸軍被服廠が軍服に関する研究,京都大学の戸田正三教授などにより満蒙の防寒服,南方の防暑服の研究が行われた2,3).被服を着ることによって,その下に形成される局所気候を衣服気候という.昭和7年頃,京都大学の緒方洪平氏(後の京都府立医大教授)によって衣服気候の研究がされ,人体が快適と感じる衣服気候の条件が明らかにされた.

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■はじめに

 農村医学と私との関係を述べる前に,私がなぜ衛生学公衆衛生学と関係するようになったかのいきさつに触れる.昭和5年春,千葉医大を卒業すると,すぐ衛生学教室の松村粛先生の教室に入局した松村先生は衛生学者として優れた学識を持っておられたばかりでなく,人間形成の道にも造詣が深かった.仏教,特に浄土真宗の近角常観師に終生教導を受けておられた.私が生涯仏教に縁を持ち,その指導原理に生き続けてきたのは,松村先生との縁が誠に大きい.松村先生は人間的魅力の溢れた,学徳兼備の大学教授だった.だから松村門下の同門から,谷川,相磯両学長が出たのである.松村先生は機会あるごとに「金言」と呼ぶ諭を教えられた.「学門において進歩するも道徳において退歩するは退歩するなり」(生物学の後藤清太郎先生の言葉)がそれであった.

 松村先生のほかに,もう一人の先生が私にはある.後に厚生省国立公衆衛生院長になられた古屋芳雄先生である.私の学生当時,古屋先生は千葉医大助教授として衛生学教室に在職されておられた.

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■はじめに

 この半世紀は,国際的にも国内的にも,真に激動に次ぐ激動の時代であった,とりわけわが国にとっては,第二次大戦を挾んで,国としてかつてない激しい浮沈の半世紀であった.50年前(1936)といえば,2.26事件があり,日支事変勃発の前夜,筆者が大学医学部に入学した年である.筆者が衛生行政に係わるようになったのは戦後のことであり,特に国レベルの行政を経験したのは昭和20年代後半以降の約5年に過ぎない.従って経験豊かな諸先輩もおられることゆえ,本稿の筆者としては適任ではないが,昭和32年に公衆衛生院に移った後は,衛生行政を研究の対象とし,学問としての体系化に微力を尽くした一学徒として,読者のご寛容を頂きたいと思う.

疫学の回顧と展望 重松 逸造
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■はじめに

 西欧における疫学の起源を,遠くは紀元前のHippocrates(ヒポクラテス全集),近くは19世紀中葉のJohn Snow(コレラ伝播様式)の業績に求めるとすれば,これに対応するわが国での疫学の先駆者は,さしずめ平安中期の丹波康頼(医心方)と明治前期の高木兼寛(脚気研究)ということにでもなろうか.明治末期には緒方正清の富山県くる病調査報告や,大正初期には内務省の発疹チフス流行記録など,今日の疫学からみてもレベルの高い業績が存在するが,全体的にみれば当時の疫学がまだ黎明期を脱していなかったことは事実といってよい.

 ちなみに,明治時代はEpidemiologie(ドイツ語)の訳語として,疫癘学(森林太郎,明治22年)や疫病学(富士川游,明治45年)などがあり・その後流行病学,疫学,疫理学などが用いられたが,日本医学会医学用語委員会選定用語(昭和18年)としては,"疫学" と "流行病学" の両者が採用されて今日に至っている.ただし,現在普及しているのは "疫学" の方で(中華人民共和国では "流行病学"),この言葉がわが国で初めて公式に用いられたのは,昭和5年に創設された東京帝国大学伝染病研究所疫学研究室(主任:野辺地慶三)であった,この研究室は,昭和13年の公衆衛生院開設とともにその疫学部(初代部長:同前)として新発足した.

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■日本の公害の史的回顧

 「企業活動に伴う住民被害」の歴史は,日本の資本主義体制の発展史と表裏の関係にある.ここでは「50年の回顧」を求められているが,明治年間の足尾鉱毒間題こそ,現代の公害に通ずる「原型」であり,それまでさかのぼることを諒解せられたい.

 日本の公害史は,明治から第一次世界大戦まで,それ以後15年戦争の期間,戦後,現在までの3期に分け,第3期は石油ショックを境に前後期とされよう(注)

栄養の回顧と展望 福井 忠孝
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■戦前の栄養

 昭和初期の公衆衛生上の栄養問題としては,大正年間に引き続いてビタミン(V)B1欠乏症の脚気に国民は悩まされていた.当時の国民一般の食生活には,肉,卵,ミルクの摂取量が非常に少なく,エネルギー源は主に穀類であったために,七分づき米,胚芽米,麦飯を食べないかぎり,V. B1が不足した.当時は緑黄色野菜の摂取量も少なかったためにV. Aが不足した.とくに青野菜の少ない夏期にV. A不足が目立った.有効とされた土用のうなぎは人間の経験から生まれた知恵である.当時の国民生活では,ミルクは病弱者用の特別食品でもあった.そのために一般にはカルシウムの摂取量が少なく,歯や骨の発育が悪く,とくに妊産授乳婦のように胎児や母乳に大量のカルシウムが移行するような場合には,母親の歯が著しく悪くなることもよくみられたものである.カルシウム不足の患者に対して,当時は消炎剤としてカルシウム注射がよく使用され,効果が認められていた.飯と漬物は当時の基本食であったが,V. Cの摂取量は意外に少なく,そのために鉄の吸収利用も悪く,さらに動物性食品の摂取量が少ないために,吸収率の高いヘム鉄の摂取量も少なく,鉄欠乏性の貧血者がしばしばみられた.

 当時の食生活には動物性タンパク質,V. A,B1,B2,C,カルシウム,鉄の摂取量が少なく栄養欠陥が著しかったために,結核など伝染性疾患に対する抵抗力が非常に弱かったといえる.

栄養行政の回顧と展望 大礒 敏雄
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■はじめに

 私の栄養学習50年,その中に栄養行政の占める範囲は大きい.それを回顧し展望せよとの事なので,思い出すままに筆を進めてみた.

 昭和10年(1935)を過ぎたころから,日本は何となく戦争気構えの空気になっていった.行政の方では,健民対策が叫ばれ,軍部の強い要望で「厚生省」が誕生したのが昭和12年12月24日(1937)であった.当時の官制は体力,衛生,予防,社会及び労働の5局にわかれていた.この中の衛生局の所管に衣食住の衛生とこれらの衛生指導というのがあった.そこで衣食住にそれぞれの専門家を必要とする事になり,食の部は,当時栄養研究所にいたホヤホヤの新人である私が押し出されてこのホストに着かせられた.

労働における疲労 松岡 脩吉
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■敗戦に至るまで

 今から50年前は昭和10年(1935)である.昭和10年はRMR(Relative Metabolic Rate)が古沢一夫氏により提唱された年である.その11月,八幡市での第8回日本産業衛生協会(1972年から学会,以下産衛と略)においてであった1,2).第15回日本生理学会総会が1936年10月暉峻義等所長を当番幹事として倉敷の労働科学研究所(翌年東京に移ったが,以下労研と略)で開かれたが,8会場で初めて分科会式に行われた.ここでも古沢氏によりRMRの提案と関連事項の説明がなされた3).RMRは人体の消費エネルギーの強度を表す適正な指標として今日に至っている.

 1938年3月,前々からロックフェラー財団の寄付で建設の進められていた公衆衛生院(1949年から国立公衆衛生院)が設置され,1月すでに新設の厚生省の管下に置かれたが,労研創設以来のスタッフであった石川知福先生が5月,生理衛生部長として公衆衛生院に転ぜられた.厚生省依頼の開拓衛生のための調査,被服廠委託の防寒被服の性能の研究(人工気候室を利用)や鉄道省委託の保線作業合理化などの研究がなされて,私どもも加わったが,研究の基底には消費エネルギーの測定があった.

統計を楽しんだ半世紀 額田 粲
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■統計の手ほどき

 統計の手ほどきを受けたのは旧制高校(府立高校—東京都立大学の前身)の三年生の一学期の,植物学実験と二学期の物理学実験であった,特に印象の深かったのは植物学の遺伝の実験で,朝顔の種子をめいめい十粒ずつ,木箱の土の上にまき,次の実験日に発芽した葉の状態を調べると,各々の木箱では相当のチラバリがあったが,級全体では誰の目にもいわゆるメンデルの古典的法則が成立していることが納得できた.

 恐らく今なら中学校でも行われているかも知れないが,今から53年前の昭和7年の旧制高校生達は,遺伝学という面白い学問があることを知った.しかしその後遺症として,期待値とか実験値などの用語やx2値という難しい言葉にその後今日まで悩まされることになった.

公衆衛生50年 山下 章
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■東京市の保健局に勤務

 昭和11年,2・26事件の少し前,雪の降る寒い日に,ただ同郷であるというだけで一面識もない宮川米次先生(当時の伝染病研究所長)を尋ねて,東京市保健局防疫課長宛の巻紙に書いた紹介状をいただいてからちょうど50年になる.

 すぐ給料がもらえるところを,という条件に学校から斡旋されたのは高知日赤の内科であったが,田舎落ちして内科医になってしまうことへの躊躇からであったと思う.とにかくこの紹介状が私の歩く道を決めてしまったことになる.

巻頭言 「公衆衛生」50巻にあたって

新しい"澪標"を 長谷川 泉
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 「公衆衛生」の前身は「公衆衛生学雑誌」である.現在の「公衆衛生」よりも一まわり小型のA5判の可愛いい雑誌であった.「公衆衛生学雑誌」は1946(昭和21)年10月25日の創刊であった.今日の医学書院の前身である日本医学雑誌株式会社から産み出された.すなわち,敗戦後の焼土の中から産声をあげたことになる.

 当時は占領行政下にあったから,食うものも,着るものもない,ないないずくしの時代であったし,伝染病や病害虫が大変であったので,GHQはとくに公衆衛生に力をいれていた.「公衆衛生学雑誌」は,小型の可愛いい雑誌であったが,GHQの後押しもあり,時流に乗って,現在の「公衆衛生」よりも部数が多かった.

50巻をふりかえる 西川 滇八
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 「公衆衛生」誌がいよいよ50巻1号を発刊することになった.そこで編集委員会としては本誌の創刊より現在までの発展経過を回顧するとともに,これまで積み上げられてきた光輝ある伝統をさらに将来はいかに展開させていくべきであるかを展望することが必要であるとの全員一致した意向で,この巻頭言をまとめることになった.本誌は50巻であるが,特集の「公衆衛生50年の回顧と展望」とは時間的な生いたちはずれている.しかしたまたまわが国に厚生省が生まれ,公衆衛生院が設立されて,一般公衆衛生行政に携わったり,研究や教育に専念してこられた人達が,公衆衛生にその生涯を賭けておよそ50年を数える時期に際会しているので,特集の内容は公衆衛生の各分野を守って躍進させてこられた先達の先生方に,回顧と将来展望を書きつづっていただき,15年後に迎える21世紀には全ての人達が健康であることを期待したいという意欲に溢れているものである.

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個の問題解決に有効な方法の開発を

 保健医療をめぐる過去50年間の出来事をふり返ってみた.太平洋戦争を境にして大きな変化があり,世界の政治経済の動静とその中で生起する諸事象が,人々の生と死に密接に関連していることを改めて知らされる.

 昭和10年代--あらゆる国策が戦争準備へ向けて展開される.皇太子誕生を記念して設立された母子愛育会は乳幼児死亡率の改善を目標に母子保健活動を開始し,また保健所が作られ,国立公衆衛生院の設立や厚生省の設置もこの時期に集中している.昭和15年には強兵確保を目指して国民体力法や国民優生法も制定された.これらの制度のもとで乳幼児検診が実施され,優秀な国民を育成するというタテマエが前面に出され,戦争遂行の手段というホンネは水面下に隠されていた.また,労働者の生活保障を目的として続々と制定された保険法で集められた保険料は,やはり戦費として活用された.

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 タイ国におけるPHCの実際活動を紹介するに当たり,まず歴史的な過程を概括しておこう.先進国から移入された現在の医療制度では,多くの国民のニードに答えられないと関係者が気づき始めたのは,約30年前のことである.

 その頃から「新しい医療を求める運動」や様々な実験プロジェクト1)が見られ,住民参加とIntersectoral Collaborationの効用を試した保健省のCommunity Health Development project(1956〜1959年)やStrengthening of Rural Health Service Project2)(1962〜1967年)などがある.そして,現在のPHC活動の原形となったのは,チェンマイ県サラピイ郡におけるHealth Development Project3)(1964〜1969年)とランパン県におけるHealth Development Project4)(1974〜1981年)およびメーホンソン県におけるDrug Cooperation Project(1978〜1980年)である.

衛生公衆衛生学史こぼれ話

18.別天さまのお祭り 北 博正
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 戦前のことであるが,毎年2月10日になると東大衛生学教室は,朝から何かと慌ただしい.これは教室の開祖,緒方正規先生が,恩師の別天師の命日に"ペッテンコーフェル先生記念会"を催し,教室の先輩,現役,その他の関係者が集まって,追悼談などをしていたものが,緒方先生が亡くなられてから,2代目教授,横手千代之助先生が"ペッテンコーフェル・緒方先生記念会"として続けられたもので,横手先生定年退官後は黴菌学初代教授の竹内松次郎先生が主宰されたが,私はこの時代にこの記念会の末席をけがすことになった.

 衛生学教授室に掲げられた別天,緒方両先生の油彩の肖像画を降ろしてハタキをかけたり,大きな花瓶を取り出したり,花を買って来たりで,男女の小使さんたちは何かと忙しい.彼らはこの行事のことを"別天さまのお祭り"と称していた.われわれ若手は定刻前に会場(当時は赤門前の燕楽軒という古風な洋食屋のことが多かった)に受付役をつとめ,大先輩たちの御高話を拝聴したわけであるが,私にとっては大変おもしろいものであった.しかし私は落ちつかず時計ばかり見てソワソワしている.というのは翌日の2月11日は紀元節(現在の建国記念日)でお休みで,前からスキーに行く予定がある.10日の夜汽車に乗らなければならないからである.こんなわけで,別天師の命日が紀元節の前日ということはよく知っていた.

19.別天師死後の顕彰 北 博正
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 別天師の死後も衛生学者やミュンヘン市民の敬慕の念は消えず,衛生学教室付近の道路はペッテンコーフェル通り(Pettenkoferstrasse)と命名され,中央駅近くのマキシミリアン広場(Maximillianplatz)にはすでに1883年建立のリービヒの座像に相対して,1909年には別天師の座像が建立され,ミュンヘンの誇る2人の偉大な科学者の像が同じ広場に置かれることになった.

 また彼の創設した衛生学教室はMax-von-Pettenkofer-Institut für Hygiene und medizinische Mikrobiologie,Ludwig-maximillian Universität,Münchenといい,彼の名を冠している.

日本列島

ホケンションイシャ 岩永 俊博
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熊本

 ある時,私の友人が,酒に酔っぱらったわけでもないのに,私に聞いた.「オイ,ヌシャ,ホケンションイシャテ,ナンスットヤ」.もちろん熊本弁であるが,なんともっともな質問であろうか.

 どう答えようかとしばし戸惑った私は,その友人が水道工事を職としていることを思いついた.そこで,「水道工事でいえば,本管工事のごたるとじゃなかろうか」.水道の蛇口がこわれた,水が出ない,止まらないということになれば,まず水道やさんに来てもらう.もちろん,自分で何かが出来る人は,自分で応急手当てをする.すると,止まらなかった水がピタリと止まる.出なかった水がジャーッと出る.その時のホッとするというか,なんとも気分のいいこと.お世話になりました.おかげさまで……ということになる.

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岐阜

 (財)医療情報システム開発センター(MEDIS-DC)では保健医療情報システムの研修の一環として,保健所情報システム研修会を昭和60年1月静岡県清水保健所で開催した.

 静岡県では昭和42年,県の行政事務を電算化するべくプログラマーの養成やComputerの導入を図ってきており.庁内各部の主管課長からなる電算化推進委員会において具体的整備方針が決められている.保健所での整備も委員会で決定をみたものであり,昭和57年から60年度にわたって全保健所へのオフィスコンピューター設置が進められている.また県立病院においても,手書き記録をすべて廃止する方向での電算化業務が検討されているようである.

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仙台市

 過日,首里城跡の門を思わせるような大きな門に象徴され,かつ近代的建築の民間施設である,いわゆる保養センターが市内に開設された.建物が豪勢で凝っているだけでなく,大浴場もすばらしい.盛大に行われた落成披露宴でも,みな賛嘆の声を惜しまなかった.

 しかし個室の壁や資料には,色々な病に効くという効能書きがずらりと標示されており,私共の眼を引きつけた.保健所としては,公衆浴場法と食品衛生法の営業許可で関係があったが,衛生行政の立場からみると薬湯(法的な名称制限はない)であれ,あくまで公衆浴場法の許可基準の中での規制しかなく,衛生行政の関係法令では薬効の広告制限が出来ないという経験をさせられた.他県でも同様な問題に直面させられると考えるが,法律の盲点と言えるのではなかろうか.

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仙台市

 近年の食品の多様化,流通経路の複雑化に伴う食品の安全性の確保は,消費者自体の努力も必要だが,行政や業界の力によるところが大きい.ことに市民の台所を賄う食糧の流通機構の拠点として中央卸売市場があるが,仙台市においても市場内にある食品衛生検査所の行政活動は,重要な存在になっている.

 当然ながら早朝からの競り売りにより,短時間のうちに販売処理がなされるので,検査所職員は,早朝より監視を行い収去した検体の検査や指導を行って,食品衛生行政の与えられた重責を果たしている.今回はその現状の一端を紹介したい.

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仙台市

 休日・夜間の一次診療を始め,年間24時間体制の充実した,二次・高次救急医療体制の整備は,仙台圏のみならず全県的にみても必ずしも十分とは言えない.今までも県内各地域で行政や医師会・大学・病院・その他の努力によって,救急情報センター,休日当番医制や休日診療所制,病院群輪番制などの体制がとられてはきた.

 幸いにして昭和60年7月23日,鶴ヶ谷オープン病院救急センター棟の起工式が行われ,年度内の完成が予定されるところまで来たことは喜ばしい.広域仙台医療圏における救急医療体制の強化のための中核病院の一つとして,引き金役を果たすことになろう.

医学生の保健所実習 井口 恒男
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岐阜

 岐阜県関保健所では,保健所の医師充足対策事業の一環として,岐阜大学医学生の希望者を対象に,夏休み中の一定期間(3〜6日)保健所実習を実施している.この事業は,星融所長のアイデアと熱意のもとに昭和59年に引き続き60年にも実施されたものであり,60年には8人が参加している.

 実習日程は,保健所内見学,ごみ処理場や下水処理場の見学,と場見学.食品監視,保健センター見学,保健所クリニックの見学,訪問指導,乳児健診や一般健康診査(老人保健法)の見学などであり,日程中に一泊の宿泊研修を挟み,フリートーキングの場を設定している.これらの実習には保健所の各種職員の協力が必須であるが,当保健所の場合,職員の協力は積極的である.

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 21世紀を生きる子孫のために,健康な地球を残そうという「地球の健康をつくる会」設立準備委員会が,去る11月29日発足した.

 同会は「人間が,他のすべての生物をはじめとする自然,環境と協調しながら生きていくすべを見いだしていくこと」を行動理論として,「アースマインド(自然と協調していく心)」を譲成するために多角的な活動を展開する予定.

基本情報

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公衆衛生
50巻1号 (1986年1月)
電子版ISSN:1882-1170 印刷版ISSN:0368-5187 医学書院

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