看護研究 45巻4号 (2012年7月)

特集 経験を記述する 現象学と質的研究

西村 ユミ
  • 文献概要を表示

 人々の経験を理解することを志向した研究方法は,たくさん紹介されている。研究の蓄積もあり,一定の成果もみられる。例えば,患者の経験を理解することは,その人の状態に応じたケアの実践を考えることを助ける。ある困難な状況に置かれた者の経験は,それを生み出す社会的枠組の問題性を,私たちに突きつける。経験を積んだ専門家の語りや実践は,その固有の実践の特徴をあぶり出し,同時に実践の継承として機能する。人々の経験を理解しようとすることは,互いの経験を交換し,新たな実践を生み出していこうとする私たちの営為でもある。

 この,「経験を理解する」という営みにはいくつかの次元がある。これまでの多くの研究では,ある状態にある者の「経験内容」を探究することに関心が注がれていた。経験内容の探究では,そのような状態にある人々に“共通して”みられる事柄を求め,概念モデルや理論構築がめざされる。この取り組みは,経験を学問知へと練り上げていく1つの方向と言ってもいいだろう。

経験の編成を記述する 前田 泰樹
  • 文献概要を表示

1.はじめに

 看護研究の,少なくとも一部が,「病む人や,現場の看護師たちが,実際にどのような経験をしているのか」といった,問いに導かれたものであるとするならば,その問い自体は,(筆者の専攻する)社会学のような隣接する学問とも,共有できるものであるはずだ。そして,この問いに答えるために,フィールドワークを行ない,インタビューを行ない,といったかたちで,記録されたデータの分析を試みるのであれば,看護研究は,知見の妥当性をめぐる方法論的な問題においても,具体的な調査技法をめぐる問題においても,社会学と多くの論点を共有しているだろう。ただし,本稿では,先を急ぐ前に,まず最初の問いについて検討してみたい。すなわち,そもそも「経験を理解する」ということがどのようなことなのか,という問いから始めようと思う。

 この問いが複雑なのは,研究者が経験の理解を試みるよりも前に,それぞれの実践の参加者たちが,自らの経験を何らかの方法で理解しているからである。例えば,ある病いを生きている人がどのような経験をしているのか知りたい,と考えるのであれば,まずは,その人が,身体の不調や痛みをどのように位置づけ,医療者から伝えられた情報をどのように理解し,さまざまなこととどのように折り合いをつけてきたかを,知ろうとするだろう。あるいは,看護師が病棟でどのような経験をしているのかを知りたい,と考えるのであれば,看護師たちが何を見て,何を聴いて,何を考え,何を報告しているのか,そういったことを知ろうとするだろう。このように考えてみるならば,ことがらをどのように経験し,それをどのように語るか,ということは,それぞれの実践の参加者たちにとってこそ,問題であることが見えてくる。そしてそこには,経験をそれと理解できるようにするための方法が,すでにあるはずなのだ。だとするならば,まず考えるべきことは,どのようにしたら,その方法から学ぶことができるだろうか,という問題ではないだろうか。

 社会学から生まれた,エスノメソドロジー(人々の方法論)という少し変わった名前をもつ学問分野は,こうした問題について考えてきた註1。こうした論点を想起させるために,H.サックスは,「赤ちゃん泣いたの,ママがきてだっこしたの」という,子どもが語った物語を分析している(Sacks, 1972)。私たちは,この2つの文からなる物語を聞くとき,この「ママ」は,泣いたその「赤ちゃん」の「ママ」であると聞くだろう。また,文が並んでいる順序に出来事が起きていて,最初の出来事があったから次の出来事があったのだと聞くだろう。だが,それはいかにしてなのだろうか。「赤ちゃん」と「ママ」が並置されるとき,私たちは,両者を同じ「家族」という集合に含まれるカテゴリーと理解する。また,「泣く」という活動は,人生段階上の「赤ちゃん」と結びついて聞こえる(大人が泣いたのであれば,さらに男性/女性が泣いたと見ることもできるだろうが,「赤ちゃん」が泣いたのであれば,さらに「男性/女性」が泣いたとは見ないだろう)。そして,「泣く」という行為は,次に続く行為を規範的に指定する働きをもつ。したがって,「だっこする」という行為は,なされるべき行為としてなされたと聞こえるだろう。

 こうしたサックスの分析が示しているのは,私たちがありふれた日常の光景を理解するときにさえ,さまざまな概念どうしの結びつきが用いられているということである。そもそも,事実として「赤ちゃん」が「男性」であり,「ママ」が「女性」であったとしても,私たちは,「男性が泣いているのを女性が抱きあげた」とは,見ないはずである。「赤ちゃんが泣いたのをママがだっこした」ことが「見てわかる」といったごく基本的な経験であっても,さまざまな概念の結びつきが用いられることにおいて経験されているのであり,その結びつきの規範的な期待のもとで編成されたものなのである。そして,この物語を語った子どもは,こうした概念の用法を理解していたはずだ。それだけでなく,サックスが強調しているように,私たちは,この赤ちゃんがどの赤ちゃんなのかを具体的に調べなくても,この物語が,「可能な記述」として理解できてしまうだろう(少なくともそこから始めるしかないという意味では,その「可能な記述」のもとでしか,理解できないだろう)。そうであるならば,このありふれた日常の光景を理解することは,個別的な経験であったとしても,そこで用いられている方法は,その個別的な経験を可能にするような普遍性をそなえているはずだ註2

 ここでようやく,冒頭の問いに対して,1つの指針を示すことができるだろう。「病む人や,現場の看護師たちが,実際にどのような経験をしているのか」を理解したいと思うのであれば,その経験を理解し得るものにしている方法から学ばなければならない。もちろん,看護師が,病棟において生じていることを理解し,報告し,記録するとき,そこでは,専門職としての専門性が求められるがゆえの難しさがあるだろう。また,病む人が,医療者から告げられた情報と折り合いをつけ,自らの経験を語るとき,その重さゆえの難しさがあるだろう。それでもなお,そうした経験は,まさにそのようなものとして,私たちの生活の一部をなしているのである。そうした経験がどのように理解されているのか,という問いは,それぞれの状況において,どのような概念の結びつきが用いられ,その結びつきの規範的な期待のもとで経験が編成されているのか,という問いでもある。第2節以下では,この問いに具体的に答えていく方向性を,いくつかの事例の分析を通して,実演的に示していきたい。

  • 文献概要を表示

はじめに

 本号の特集「経験を記述する」について,企画者である西村ユミは特集扉の企画趣旨において,知を生成する方向性は複数あることを示唆した上で,「経験の理解は,経験内容の理解とは別の次元から問われ」るとした(p.310)。ここで西村が言う「経験の理解」と「経験内容の理解」の区別は,知の生成の方向性のどのような違いから生まれるのであろう。自然科学が前提としてきた主客二元論を乗り越えることをめざしたフッサール以来の現象学が,さまざまな質的研究に重要な基盤を与えてきたのは確かであるが,現在の質的研究を巡るさまざまな混乱を考えたとき(西條,2005),ガリレオやデカルト,ベーコンを祖とする近代科学の方法論の問題以上に,西洋における知の源流と,知のヴェクトルの問題に付随する言語と論理の問題に立ち戻って考える必要があるのではないだろうか。

 そこでこの小論では,「経験の理解」と「経験内容の理解」を,ギリシア時代以来の人間の知の生成の2つの方向性,すなわちプラクシス(実践)に基づく「未来志向の知」と,テオリア(理論)を希求する「過去志向の知」に結びつけ,そこにみられる意識と自然あるいは主観性と身体性の観点から考えてみたい註1。そして,量的研究か質的研究かという区分あるいはグラウンデッド・セオリー・アプローチ(GTA)や記述的現象学的方法など特定の質的研究の方法論とは異なる,身体論の立場からの「経験の記述」のあり方を提言してみる註2

 本論に入る前に,この小論で言う〈身体〉とは何かについて簡単に述べておきたい。医療の現場で日々出会う身体は,解剖学の祖ヴェザリウスによって系統的に細分化され,デカルトによって心と区別された身体である。しかし,ここで言う〈身体〉は,そうした要素に分割できる物理的延長としての身体ではなく,心と断絶される以前の全体存在としての〈身体〉である。メルロ=ポンティに依拠する西村(2001)はこの〈身体〉を,「生きられた世界経験の具体的な出発点」であり,「世界とのつながりであり,〈身体〉があるからこそ,世界との対話が可能となる」と表現している。この小論で言う〈身体〉も,メルロ=ポンティが示したこの世界とのつながりとしての〈身体〉であり,それはたんにデカルト以前の心とひとつになった身体ではなく,主体と客体という二元論によって人間存在を理解するはるか以前,ギリシア時代に主観性の哲学が立ち現われる以前の〈存在〉を指している。

 では,この主観性の哲学以前の〈存在〉とはいかなるものであろう。ギリシア哲学者の日下部吉信(2005)は,「西洋形而上学は全体として主観性の哲学」であり「存在の真理を隠蔽してきた」という反省から,ソクラテス以前のギリシア自然哲学に着目し,根源概念としての〈自然概念〉(ピュシス)を見いだした。日下部はこの「ピュシス」が「ギリシア人にとっては意識の対象ではなく,ある意味性を帯びた意識そのものであった」(p.78)とし,それを主観性の哲学によって説明することは「原則不可能」であることを強調している。そして,「にもかかわらず,そういった根源概念である自然概念(ピュシス)の解明がなお可能だとするなら,それはその概念が自ら現れ出る現場を差し押さえる現象学的方法によって以外ではありえないであろう」(p.75)とした。このピュシスが「自ずから現れ出る現場」こそが,古代ギリシア人にとってはテクネー(技術)の世界であった。日下部によれば,「テクネーの志向性は物事に即したそれである。ギリシア的テクネーの知はいわば物事との応答の内に開示される存在の思索なのである」(p.55)。

 このように,ソクラテス以前のギリシア自然哲学の特徴は,テクネー性の重視にあり,その特徴を日下部は,「技術は物事の本質に対して無関心なのである。テクネーをベースとする命題には原理・本質に対する無関心性,冷淡さがつきまとう。というより,それがテクネーの本性なのであって,テクネーは物事の本質には係わらない。そのありように係わるだけである」註3としている。テクネーの人の代表者であるプロタゴラスが示した「絶対的・客観的知識の穏やかな,しかし断固とした拒否」と「神に関しては判断停止」の態度がこうしたテクネー性そのものであり,「プロタゴラスもまた存在の一表現となった人物」としている。このように私たちの〈身体〉は,ギリシア時代に主観性原理が確固たる地位を占める以前に人々が依拠した存在(自然概念)へと導いてくれる。

 東西の身体論についての第一人者であった湯浅泰雄(1993)もまた,ギリシア時代のプラクシス(実践,行動)に対するテオリア(理論,観察)の優位こそが,近代がもたらした問題の根源にあることを次のように指摘している。「技術の進歩が科学を追い抜いたという現代の状況は,日常性と科学性の関係について,あらためて考え直す必要をわれわれに教えている。というのは,技術は本来,日常的経験の場面に根拠をもつ営みであるからである。言いかえればわれわれは,近代とは逆に,日常的経験の立場から出発して科学的認識というもののあり方について考えてゆかなくてはならない」(pp.63─64)註4

 日下部の言う存在としての〈自然概念〉(ピュシス)の喪失から主観性原理の確立,湯浅が言うプラクシスに対するテオリアの優位が成立した経緯は,知の方向性という観点からは,哲学者の大出晃(2004)の言う「未来志向の知」から「過去志向の知」への転換と位置づけられるだろう。この小論では,古代オリエントからギリシア時代にかけて起こった知の方向性の転換におけるこの2つの知のあり方,つまり技術的な知恵を主とする「未来志向の知」と事象の依って来る由縁に関心をもつ「過去志向の知」を,西村の言う「知を生成する複数の方向性」と捉えてみる。そして,存在としての〈身体〉が生み出す「未来志向の知」という観点から,「経験の記述」のあり方について考えてみる。

  • 文献概要を表示

 経験を理解するという探究方法について,「出生前遺伝子診断による選択的妊娠中絶の語り」という論文執筆の経験を通して記述する。ただ,かなり昔の経験なので,昔からいままでに新たに加わったことも含めることにする。過去をそのまま想起するわけではない。すでに,現在という中に過去も未来も含みこまれてしまっている。したがってスタイルは研究論文に準じてはいるが,時間的な順序は入り乱れ,循環してしまっている。ディルタイ曰く,生は遡り得ないので,そのあたりは,ご容認いただきたい。

  • 文献概要を表示

問題の所在

 人は病いをもち死に瀕することで,肉体的な苦痛や不安,恐怖,あるいは生きる意味を問う苦悩などを体験する。病いに伴うこのような苦しみ,いわゆる全人的苦痛を緩和すること─それが緩和ケアの理念である。1960年代に誕生したホスピスケアの思想を受けつぎ,1970年代に誕生したこの概念は,現在は世界に広まり医療の重要な柱として位置づけられている。日本においても,2007年に施行されたがん対策基本法により,さらに医療現場に浸透しつつある。今日では,緩和医療の知識や技術は著しい進歩を遂げている。

 しかし,人の苦悩を全人的なものとして捉え,それを緩和するという緩和ケア本来の目的を考えると,その実現は容易ではない。患者,家族それぞれが抱える苦痛は,固有の価値観や関係性,生活や生きた歴史などが深く絡み合い,現在の苦しみとして経験されるので,1人ひとりの文脈に即したケアが求められるからである。

  • 文献概要を表示

I.「患者理解」という看護実践

 看護学実習に臨む学生は,患者の前に立ったとき,「緊張をして,身体が思うように動かない」「頭ではわかっていても,手が出せない」といった身体の不自由さを少なからず自覚する。それは,自分とは異なる存在としての患者との出会いに,時に戸惑いながらもかかわることの意志を抱き,その人に合った看護実践を模索する,学生の経験の一端でもある。看護実践において,その中核となるのは患者の理解である。この患者理解とは,看護学実習の要であり,自らの身体をもって相手の身体の状態を把握する,あるいはわかる,そしてその上で自分が看護を実践することを意味する。

 もとより看護とは,「患者が体験している援助へのニードを満たす」(Wiedenbach, 1964/外口,池田訳,1969, pp.47─59)こと,あるいは「患者自身が自己についての新しい状態をつくりだしてゆくのを助ける」(野島,1977, p.304)こととされる。それは,誰かを,または何かを「気遣う」ことによって状況の内(側)に身を置くことから始まるのであり,このことを通して看護師は,患者の健康上の問題を発見し,可能な限りの解決の手立てのもとに看護を実践する。そのため看護実践は,単なるテクニックと科学知識だけでは不十分(Benner & Wrubel, 1989/難波訳,1999, p.5)であり,他者への気遣いや,関心によって導かれると言える。

  • 文献概要を表示

第1節

はじめに

 私は7年前より,うつ病回復者の語りに着目し,彼らの生き方を「状況構成」(Tellenbach, 1976/木村訳,1978;高岡,2003)という視点から捉え,その特徴を明らかにしてきた。そして,語られた内容から共通点を見いだすという方法で導き出した答えは,彼らがこれまでの生き方が通用しない状況で発症しており,再発するかしないかの分水嶺は,自分の生き方に多少なりとも変化を組み込むことができたかどうかにかかっているということであった(近田,2010)。

 しかし,うつ病からの回復を考えるためには,これまでの研究方法では限界も感じている。例えば,研究者である私は,すでにうつ病の病前性格や発症要因,症状について知ってしまっており,そうした先入観に引っ張られるようにして彼らの経験内容をまとめあげ,生き方や価値観の変化として片づけはじめてしまっている可能性が大きい。生き方とは,まさに1人ひとり異なる経験である。共通点を抽出し抽象度を上げるプロセスの中で,逆に零れ落ちてしまう事象があるのではないだろうか。

 そこで本稿では,過去にインタビューに応じてくれた方の中で,発病前後の生き方の変化について具体的に語ってくれたAさんの語りに着目し,うつ病という病いの経験がいかに語られるのか,事象そのものをこれまでとは別の角度から問い直すことを試みたい。そして,うつ病という病いの経験を記述することがどのような意味をもつのか検討したい。

  • 文献概要を表示

はじめに

 個人が病気をどう解釈しどう意味づけるかは,時間とともに変化する。さまざまな出来事や出会いによって病気の意味は常に変容する可能性をもっている。過去の経験が新たな意味をもつものとして解釈されたり,逆に,重要な意味があると思っていた出来事がたいしたことではなくなったりする場合もある(野口,2001)。看護の分野においては,病気の意味が変化することを前提に,多くの健康行動理論が開発されてきた。健康行動の概念枠組みは,コンプライアンスや患者のモチベーションと密接に関連しており,患者の治療に適した行動を維持し,変化を促すためのツールとして役立つ(Syx, 2008 ; Bastable, 2011, p.210)。健康行動という名の通り,健康を志向するかたちで行動を変容することが医療者の間で志向されてきたと言える。それでは患者の側では,行動変容を伴う病気の意味の捉えなおしは,どのように経験されているのだろうか。

 さまざまな捉えなおしを経験している患者の中でも,本研究では,薬害によってHIVに感染した血友病註1患者に着目した。小児慢性疾患では,患者は物心ついたころから,通院や治療が習慣としてすでにあるという経験をしている(鈴木,2005)。血友病もまた小児慢性疾患であり,幼少の頃からの日々のさまざまな出来事や,濃縮血液製剤の登場,薬害事件等の治療史上の出来事註2などが,患者にとって病いの意味を捉えなおす契機となり,時間的経過とともに意味が生成され続けている。このような経験をしている血友病患者の経験を記述するにあたっては,医療・社会情勢,時代背景から分離されないようにし,患者の意識や病気,障害だけを対象化しないという視点が求められる(杉本,2010, p.3;加賀野井,2009, pp.118─120)。また患者の置かれた医療環境についても,診療科や期間,病院等を既存の常識でもって分断しないように配慮することで,患者の経験を捉えやすくなると考えられる(メルロ=ポンティ,1945/竹内,木田,宮本訳,1964, p.3)。

 よって本研究では,血友病患者の語りをもとに,患者が生きてきた人生史を辿り,さまざまな出来事を契機に,どのように自らの病いの経験を意味づけ,捉えなおしてきたのかを記述する。

  • 文献概要を表示

1.時間経験への関心

 本稿で試みようとしているのは,病棟で働く看護師たちが「時間」をいかに経験しているのか,それが実践とどのように関係して成り立っているのかを,記述的に探究することである。

 そもそも看護実践の探究において「時間」に関心をもったのは,総合病院の急性期病棟で看護師に同伴をしながらフィールドワーク註1を行なっていた際に,しばしば,彼らの実践に「時間」への関心や注意が見て取れたためである註2。例えば,本稿で紹介する看護師Cさんは,ある患者の検査時間に関心を向けることからその日の実践を始めたのだが,その後,検査時間が変わったり患者の状態に気がかりを感じ取ったりすると,その状態に注意を引き寄せられ,その注意とともに次の行為やプランが決まり,実践が組み換えられていった。

  • 文献概要を表示

1.フィールドワークの経験へ

 何らかの事象を探究しようとするとき,私たちはその事象に関心を向け,そこで見聞きしたことに言葉を与える。例えば筆者らは,急性期病棟における協働実践の編成のされ方に関心を向けて調査を行なってきた註1。急性期病棟に入院する患者のいのちや療養生活を支えるために,看護師たちが交代をしながら24時間にわたってケアを行なっていること,病棟には複数の患者が入院しており,彼らの援助を複数の看護師たちが協働して行なっていること,例えば,複数の患者を担当しながらそのつどの優先順位がいかに決まっているかということや,共に働く他の看護師たちの動きが,それを直接見ていなくてもわかっていること等々に,関心を向けてきた。しかし,これらの実践,複数の協働実践の仕方は,看護師たちに明示的に自覚されているわけではない。それゆえ,看護実践に伴走しつつ,そこで起こっていることを記録するフィールドワークを通して,看護師たちの実践を彼らの視点から探究することを試みた註2

 具体的には,総合病院の急性期病棟,および看護管理部門において調査を行なったのだが,その際,フィールドノーツに記したことの多くは,病棟の看護師たち,および看護管理部門の副部長の振る舞いや言動,さまざまな物の交換,注意を向けた患者の状態や他の看護師や医師の振る舞い等々であった。もちろん,研究の成果はこの記録に依存しているために,調査者が見たり聞いたりした看護師たちの実践が分析され記述される。

  • 文献概要を表示

はじめに

 院内や学校での研究発表会や学会,あるいは何気ない会話の中で,「質的研究とジャーナリズムとはどこが違うのか?」「質的研究の結果に科学的な客観性はあるのか?」といった質問を投げかけられ,戸惑った経験はないだろうか? 私たち2人が日本赤十字看護大学大学院修士課程に在籍していた1990年代後半には,大学内部でこうした疑問が非公式にささやかれたり,学位論文発表会のような場で公然と質問されることが少なくなかった。

 ある修士論文発表会での出来事を思い出す。質的研究を行なった大学院生に対して,一般教養系の教員が,「質的研究は客観的でないし,サンプリングもいい加減で,方法論的におおいに欠陥がある。いくら立派な結果を出したって,偏見に満ちた偏った結果であるから,とうてい一般化はできない。一般化できないのでは科学的価値はゼロである」という意見を述べた。意見を言われた院生が反論できずに困っていたとき,当時学長だった樋口康子先生が立ち上がって,「質的研究が依って立つパラダイムは,あなたが立脚するパラダイムとは全く異なっている。質的研究のパラダイムは,学問論的には新しく,しかし看護学にとっては決して軽んじることのできない重要なパラダイムなのだ。あなたがもし,今後も優秀な看護学者を育てる気概をおもちなら,すぐにでも質的研究のパラダイムを勉強するべきだ」とディフェンスする場面があった。このとき交わされていた議論の焦点,すなわち質的研究で得られる結果の一般化可能性にまつわる問題が,いまも私たちの争点になっている。

 質的研究を厳しく評価する人々が注目していることは,質的研究の一般化可能性である。論理学の言葉としての「一般化」は,さまざまな事物に共通する性質を大まかにくくり,1つの概念にまとめあげることである。しかし,研究における「一般化」とは,研究で得られた結果が,その研究でサンプルとなったケースだけにたまたまあてはまるのではなく,類似の条件下の多くのケースにもあてはまる結果であることを意味する。研究が科学的な営みである以上,そのような一般化が可能な結果であることが求められるのだ。厳しい評価者はそう指摘しているのだろう。確かに,もし研究で得られた結果が,そのケースだけにみられる特殊なものであり,他のケースにはあてはまらないとしたら,その結果を他人に伝えても,その伝達はほとんど意味をもたない。

 では,質的研究はこの「研究結果の一般化」が得られないのだろうか? 本稿では,この問いに答えるために論点を整理して検討していきたい。第1に,質的研究とは何をする営みなのかという「質的研究の本質」について,第2に,一般化とはどのような概念で,その概念を用いることにどのような意義があるのかという「一般化可能性の概念」についてである。

--------------------

欧文目次

INFORMATION

INFORMATION Plus

『看護研究』投稿規定

次号予告・編集後記

バックナンバー

基本情報

00228370.45.4.jpg
看護研究
45巻4号 (2012年7月)
電子版ISSN:1882-1405 印刷版ISSN:0022-8370 医学書院

文献閲覧数ランキング(
11月12日~11月18日
)