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1.はじめに
看護研究の,少なくとも一部が,「病む人や,現場の看護師たちが,実際にどのような経験をしているのか」といった,問いに導かれたものであるとするならば,その問い自体は,(筆者の専攻する)社会学のような隣接する学問とも,共有できるものであるはずだ。そして,この問いに答えるために,フィールドワークを行ない,インタビューを行ない,といったかたちで,記録されたデータの分析を試みるのであれば,看護研究は,知見の妥当性をめぐる方法論的な問題においても,具体的な調査技法をめぐる問題においても,社会学と多くの論点を共有しているだろう。ただし,本稿では,先を急ぐ前に,まず最初の問いについて検討してみたい。すなわち,そもそも「経験を理解する」ということがどのようなことなのか,という問いから始めようと思う。
この問いが複雑なのは,研究者が経験の理解を試みるよりも前に,それぞれの実践の参加者たちが,自らの経験を何らかの方法で理解しているからである。例えば,ある病いを生きている人がどのような経験をしているのか知りたい,と考えるのであれば,まずは,その人が,身体の不調や痛みをどのように位置づけ,医療者から伝えられた情報をどのように理解し,さまざまなこととどのように折り合いをつけてきたかを,知ろうとするだろう。あるいは,看護師が病棟でどのような経験をしているのかを知りたい,と考えるのであれば,看護師たちが何を見て,何を聴いて,何を考え,何を報告しているのか,そういったことを知ろうとするだろう。このように考えてみるならば,ことがらをどのように経験し,それをどのように語るか,ということは,それぞれの実践の参加者たちにとってこそ,問題であることが見えてくる。そしてそこには,経験をそれと理解できるようにするための方法が,すでにあるはずなのだ。だとするならば,まず考えるべきことは,どのようにしたら,その方法から学ぶことができるだろうか,という問題ではないだろうか。
社会学から生まれた,エスノメソドロジー(人々の方法論)という少し変わった名前をもつ学問分野は,こうした問題について考えてきた註1。こうした論点を想起させるために,H.サックスは,「赤ちゃん泣いたの,ママがきてだっこしたの」という,子どもが語った物語を分析している(Sacks, 1972)。私たちは,この2つの文からなる物語を聞くとき,この「ママ」は,泣いたその「赤ちゃん」の「ママ」であると聞くだろう。また,文が並んでいる順序に出来事が起きていて,最初の出来事があったから次の出来事があったのだと聞くだろう。だが,それはいかにしてなのだろうか。「赤ちゃん」と「ママ」が並置されるとき,私たちは,両者を同じ「家族」という集合に含まれるカテゴリーと理解する。また,「泣く」という活動は,人生段階上の「赤ちゃん」と結びついて聞こえる(大人が泣いたのであれば,さらに男性/女性が泣いたと見ることもできるだろうが,「赤ちゃん」が泣いたのであれば,さらに「男性/女性」が泣いたとは見ないだろう)。そして,「泣く」という行為は,次に続く行為を規範的に指定する働きをもつ。したがって,「だっこする」という行為は,なされるべき行為としてなされたと聞こえるだろう。
こうしたサックスの分析が示しているのは,私たちがありふれた日常の光景を理解するときにさえ,さまざまな概念どうしの結びつきが用いられているということである。そもそも,事実として「赤ちゃん」が「男性」であり,「ママ」が「女性」であったとしても,私たちは,「男性が泣いているのを女性が抱きあげた」とは,見ないはずである。「赤ちゃんが泣いたのをママがだっこした」ことが「見てわかる」といったごく基本的な経験であっても,さまざまな概念の結びつきが用いられることにおいて経験されているのであり,その結びつきの規範的な期待のもとで編成されたものなのである。そして,この物語を語った子どもは,こうした概念の用法を理解していたはずだ。それだけでなく,サックスが強調しているように,私たちは,この赤ちゃんがどの赤ちゃんなのかを具体的に調べなくても,この物語が,「可能な記述」として理解できてしまうだろう(少なくともそこから始めるしかないという意味では,その「可能な記述」のもとでしか,理解できないだろう)。そうであるならば,このありふれた日常の光景を理解することは,個別的な経験であったとしても,そこで用いられている方法は,その個別的な経験を可能にするような普遍性をそなえているはずだ註2。
ここでようやく,冒頭の問いに対して,1つの指針を示すことができるだろう。「病む人や,現場の看護師たちが,実際にどのような経験をしているのか」を理解したいと思うのであれば,その経験を理解し得るものにしている方法から学ばなければならない。もちろん,看護師が,病棟において生じていることを理解し,報告し,記録するとき,そこでは,専門職としての専門性が求められるがゆえの難しさがあるだろう。また,病む人が,医療者から告げられた情報と折り合いをつけ,自らの経験を語るとき,その重さゆえの難しさがあるだろう。それでもなお,そうした経験は,まさにそのようなものとして,私たちの生活の一部をなしているのである。そうした経験がどのように理解されているのか,という問いは,それぞれの状況において,どのような概念の結びつきが用いられ,その結びつきの規範的な期待のもとで経験が編成されているのか,という問いでもある。第2節以下では,この問いに具体的に答えていく方向性を,いくつかの事例の分析を通して,実演的に示していきたい。
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