看護研究 44巻1号 (2011年2月)

焦点 現象学的研究における「方法」を問う

西村 ユミ
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 患者やその家族の経験を当事者の視点から探求し,相手の立場に立った看護実践の手がかりにしたい。看護師の経験や実践がどのように行なわれているのかを記述して,看護の知恵や技能を明らかにしたい。その際,経験の成り立ち方(現われ)を探求したいのだから,「現象学的研究」が適切だと考えた。だけれども,具体的にどのように進めてよいかわからない……。

 このような悩みをしばしば耳にしてきました。研究の動機を尋ねてみると,どの人も,自らの見方,あるいは既存の医療実践における患者理解の仕方や実践の枠組みの捉え直しを求める貴重な「問い」を抱いています。が,そこに内包されている問題の構造や探求の切り口が見えていなかったり,「現象学的」であることに従おうとするあまり,立ち往生してしまっているように思われます。

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はじめに

 看護研究や看護実践の現場で,質的研究の1つの方法として「現象学的」研究が注目されるようになって久しい註1。けれども,その場合の「現象学」がどのような内実をもち,またいかなる「方法」を用いるのかということになると,必ずしも明確ではないのが実情である。現象学の創始者フッサール(Edmund Husserl, 1859─1938)が『論理学研究』第2巻(1901)で初めて「現象学」の理念を表立って提示してから約半世紀,当時メルロ=ポンティ(Maurice Merleau─Ponty, 1908─1961)はその著『知覚の現象学』(1945a/1967)の序文を次のように書き出した。

 現象学とは何か。フッサールの最初期の諸著作から半世紀も経ってなおこんな問いを発せねばならぬとは,いかにも奇妙なことに思えるかもしれない。それにもかかわらず,この問いはまだまだ解決からはほど遠いのだ。…(中略)…性急な読者なら…(中略)…一体自分を定義するまでにも至っていない哲学が果してその周りで立てられている全評判に値いするものなのかどうか,そんな哲学はむしろ神話や流行にすぎないのではないかと,訝しくも思うことであろう。

 (メルロ=ポンティ,1945a, p.If/1967, pp.1─2)。

 メルロ=ポンティが当時直面した状況は,それからさらに半世紀以上を経たいま,ほぼそのまま現在の「現象学的」看護研究にもあてはまるように思われる。「現象学的」看護研究と銘打たれた研究は,数多くみられるが,その内実はさまざまで,方法もまちまちである。一体,そのような「現象学的」看護研究は信頼に値するものなのだろうか。単なる流行にすぎないのではないか。私たちは,現象学的看護研究の「現象学的」たるゆえんはどこにあるのか,またその「方法」とはどのようなものであるべきなのかを,改めて問い直す必要に迫られているのである。

 今日の「現象学的」看護研究が多様で容易に見通しが利かないことの一因は,「現象学」という哲学そのものの展開の歴史に深く関係している。メルロ=ポンティ自身は,上述の現状認識に立って,『知覚の現象学』では,従来の現象学の文献解釈に囚われることなく自らの現象学─いわば身体と身体によって生きられる世界経験の現象学─を展開したが,今日の私たちは,「現象学」がその創始者フッサールにおいて,すでに幾度かの転回をとげつつ,このメルロ=ポンティも含め,ハイデガー(Martin Heidegger, 1889─1976)やサルトル(Jean-Paul Sartre, 1905─1980),レヴィナス(Emmanuel Levinas, 1906─1995)など多くの哲学者たちによって批判的に継承され,「現象学運動」註2と呼ばれる一大思想運動となって多様に展開したことを知っている。しかしこの批判的継承と多様な展開の結果,「現象学」は「事象そのものへ!」という根本精神こそ受け継ぎつつも,その具体的内実は各現象学者によって,しかもその思想の展開の各時期において,時に全く異なったものとなり,またそれに伴って方法も大きな異なりを見せることとなった。「現象学」という哲学は,このように独特の展開を遂げてきたのである註3

 筆者のみるところ,現象学的看護研究はこれまで,以上のような現象学運動の多様な展開のなかで,現象学をその方法として取り入れてきた。しかし,どの現象学者のどの時期の思想に基づいて「現象学的」看護研究を行なおうとしたかによって,その内実も方法も異なっていたのであり,そのことが全体として,「現象学的」看護研究の「現象学的」たるゆえんをみえにくくする大きな要因ともなってきたのである。

 そこで本稿では,「現象学的」看護研究がもつべき「現象学」の意味とその方法を明確にするために,まず現象学的看護研究の諸流派に関する従来の分類を確認した上で,より現状に即した筆者自身の見方を提示する(第1節)。そしてこれまでの代表的な「現象学的」看護研究のいくつかを筆者自身の見方にしたがって概観し,批判的考察を加えた上で(第2節~第5節),最後に「現象学的」看護研究において「現象学的」とは何であり,また何であるべきなのか,そしてそのための「方法」はどうあるべきなのかを,見極めることにしたい(第6節)。

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はじめに

 現象学的研究に固有の方法はあるか。言い換えれば,現象学的研究を行なう際に必ず使わなければならないような方法はあるか。これに対する答えは,方法をどのように定義するかによって異なる。方法を,手順やマニュアルのような狭い意味で捉えるとすれば,現象学的研究に決まった手順はないと答えるべきであろう。しかし,方法という語を「原理を探究する道筋」といった広い意味で捉えるとすれば,確かにあると言える。

 広い意味での現象学の方法というのは還元のことである。還元というのは,私たちが普段知らず知らずのうちに行なっている科学的・客観的なものの見方をカッコに入れて,直接的な経験に戻ることであった。この還元を行なった上で私の意識に表われてくる個々の経験の意味を自由に想像して変化させ,そうしたすべての変化に共通する形相(本質)を捉えるのが現象学である。現象学的研究に固有の方法と言えるのはこれですべてである。

 ただ,どれほど幅広い道筋だとしても,道から外れる場合がある。言い換えれば,現象学的研究を行なう以上,すべきでないことがある。例えば,3人にインタビューしたところ2人が同じことを述べたので,それは正しいと結論づけることである。また,インタビューした人の年齢や病状などの事実から経験の客観的意味を推測しておき,そこから実存的意味を引き出すという手順である。これらは,客観的─科学的なものの見方をカッコに入れるのではなく,それを前提にしているので,現象学的研究の道筋から外れていると言わざるを得ない。

 こうした「踏み外し」を防ぐためには,そもそも現象学が,自然科学にみられる実証的な研究方法への批判から生まれたことを知っておくだけで十分であろう。E.フッサール,は,当時の実証的な研究方法に対する批判から現象学を考え,やがて現象学がすべての学問の基盤になり得ると考えるようになった。実際,その後現象学は,L.ビンスヴァンガーやW.ブランケンブルクらによって精神医学に,A.シュッツらによって社会学に,またC.R.ロジャーズらによって心理学に採用されるようになった。看護の領域に現象学的な研究方法が導入されるようになった理由も,患者の病いの体験など,自然科学の実証的な研究方法では捉えきれないことがらを明らかにするために必要だったからだと考えられる。これらの領域に共通しているのは,実証的な研究方法では捉えきれないことがらをも研究する領域だということである。すなわち,自然科学的な研究方法が対象を分析的(部分的)に明らかにするのに対して,これらの領域では総合的に捉える必要があるからであり,またこれらの領域では,自然科学的な研究方法が求める実験条件のコントロールや追試ができないことが多いからである。

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はじめに

 「患者を理解したい」「患者の体験している世界はどのようなものか」─このような問題意識が,看護学における質的研究増加の一因であるだろう。これらの問いは,看護実践(ケア)の現場から生じている問題意識であり,それゆえに看護学の本質的な課題の1つと言うことができるであろう。

 だが,これらの問題を具体的に問い進めていくときに,さまざまな疑問や難問に出会う。「どのようにして患者を理解すればよいのか」「どこまでいけば患者を理解したと言えるのか」「自分の患者理解は正しいのか」「そもそも患者を理解することができるのか」等の疑問は自然に起こり得るのであり,これらの疑問を厳密に考えようとすればするほど,これらの疑問に対して肯定的な答えが見いだされないように思われるのである。

 このような状況が生じるのは,「患者の理解」という一般的な問題意識が,十分に的確に具体化(あるいは定式化)されていないためであると考えられる。このことは,看護学の質的研究の基本用語(「意味」や「体験」など)の使われ方が整合的ではないことにも現われている。

 以上の事態に対し本稿がめざしているのは,看護学において新しい質的研究方法論を提起することやさまざまな質的研究を統合するような視点を提示することではなく,もっとささやかなものである。それは,「理解とは何か」という問いを,ドイツの哲学者ハンス=ゲオルク・ガダマーの思想に基づいて明らかにすることである註1。人間の「理解」の全体構造を提示することによって,看護学等の質的研究における上記のさまざまな問題設定が再検討され整理されるならば,本稿の目的は果たされたと言っていいだろう。

 本稿の構成は以下の通りである。まず,看護学の質的研究の基本的枠組みにおける問題点を確認する(第1節)。そして,ガダマーの「理解」の全体的な構造を叙述する(第2節)。さらに,個々人の「理解」が立脚している「伝統(学的なコミュニケーションの総体)」について論じ(第3節),理解ならびに伝統を可能にしている言語の構造について考察する(第4節)。最後に全体のまとめと,ガダマー思想の問題点を指摘する。

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第1節

研究の背景

 本稿は,「患者を1人の人として理解する」ことを,ある患者の経験の記述を通して試みたものである。

 今日,看護研究においては,量的研究では捉えられない人間の全体性や固有性等を理解する必要性から,質的研究法による経験の探求が積極的に進められている。そこでは,さまざまな方法論のもと,いずれも共通して,対象者ではなく研究参加者と位置づけられた人たちを,その人の文脈とともにその人の視点から理解することが試みられている。そしてその結果,1人ひとりの患者をみていくことや,患者を1人の人として理解すること,また患者の人間としての尊厳を重視すること等の重要性が指摘されてきた(ホロウェイ&ウィーラー,2002/2006;トラベルビー,1971/1974;トーマス&ポリオ,2002/2006;中込,2004;広瀬,1992a ; 1992b ; 1993)。実際,筆者は修士論文註1において筋ジストロフィー病棟註2に暮らす人々の生活経験の記述を試みたが,その記述においても彼らを1人の人として理解することの重要性を指摘してきた。

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第1節

看護実践の成り立ちに分け入る

 経験を積んだ看護師たちの視線は,患者の顔色や表情,全身から醸し出される雰囲気とも言える体調や気分,ちょっとした動きの違和感などに向けられており,その手は,眉間に皺を寄せて蹲っている身体へ差しのべられる。またこの実践は,特定の場面のみを切り取ると,1人の看護師が1人の患者に行なっていることと言えるが,例えば病院の病棟の状況を見ると,複数人の看護師が交代をしながら,複数人の患者たちの援助を24時間にわたって行なっている。前の勤務帯の看護師が知り得た患者の状態,実践した援助等々はさまざまな方法で次の勤務帯の看護師に伝えられる(西村,2007)。同じ勤務時間帯にともに働く看護師の実践にも注意が払われ,協働実践を成り立たせている(前田,西村,2010)。

 こうした病いへの眼差しや応答性,あるいは病棟での協働実践は,看護師たちにとっては日常的で自明な営みであるために,それをいかに行なっているのかを説明することは難しい。いくつかの先行研究が,マイケル・ポランニー(1966/2003)の「暗黙知」註1という概念を参照して看護実践を論じてきたのも,それゆえであると思われる(ベナー&ルーベル,1989/1999 ; Herbig, Bussing, & Ewert, 2001 ; Carlsson, Drew, Dahlberg, & Lutzen, 2002;阿保,2009;池川,2009)。

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第1節

フィールドワークという方法

 医療現場において看護師たちは,患者や療養者の援助を多様なスタイルで行なっている。とりわけ,24時間にわたる援助を要する患者の場合は,複数の看護師が交代をしながら,その人の命や生活を引き受けることになる。いわゆる総合病院の病棟では,複数の入院患者を複数の看護師が交代して引き継ぎながら,また同じ勤務時間帯では互いに相談や報告をしながら協働実践を行なっているのである。この実践がいかに成り立っているのか,そこでの相互行為がいかに遂行されているのかに関心をもって,私たちは過去3年間にわたって,中部地区にある総合病院でフィールドワークを行なってきた註1

 調査当初,この総合病院は12病棟500余の病床をもち,500余名の看護職が配置されていた。調査に入ったのは,呼吸器・循環器内科病棟である。毎年1~2週間,この病棟に入って集中的に調査を実施し,また不定期に,個別のインタビューを行なったり,病院の研修を見せてもらったりした。集中的な調査中は病院の近くに宿泊し,主に日勤帯の実践を参加観察した註2

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現象学にとっての看護研究の位置

 現象学には経験される現象を分析するという機能がある。しかし経験の領域はフッサールが主に取り上げた「認識」に限られるわけではない。例えば認識の裏面,言い換えると複雑な社会環境による触発(これを現実触発と呼ぶことにする)に対する応対の研究を構想できる。この応対には2つの種類がある。1つは身体に書き込まれた象徴構造を現実に適応できるよう組み換える場合。この場合,現実をいかに受容するかが問題になるので治癒や成長が主題となる。心理臨床や精神病理学を現象学へと読み替える作業はこちらの側のプログラムである。もう1つは,社会環境の側で諸象徴構造間の調和を探し出す場合。この場合,環境へと介入する行為が問題となるので行為論となる。看護研究はこちらに属する。

 現象学が精神医学や看護研究に踏み込む理論上の理由は,触発の次元へと拡張するためである。一般的には,本論でその一例を示すように新たな現象を発見してゆくための重要な手がかりとして重要性をもつのである。

特別記事 【ソーシャルメディアと研究】

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Twitterを始めてから起こったこと

 最初にTwitterのアカウント登録をしたのは,2009(平成21)年の7月でしたが,はじめは全く意味がわからず,そのままにしてありました。次第にどのようなものかが,関連の記事を見たり聞いたりでわかりはじめていたので,2010(平成22)年前期の大学院の講義「看護情報学特論I」で紹介しようと,シラバスに入れました。しかし,院生に何に役立つのか,どう使うのかと詳しく突っ込まれると,どうにもわからないことが出てきてしまいました。これは実際に使って教えられるようにしないといけないと,授業の途中の6月に始めたわけです。

 そして使いはじめて何が起こったか。この原稿を書くことになったことがまず1つです。運営しているサイト「ナースに役立つ種類のサイトとは?─Nurse's SOUL」(http://www.nursessoul.info/)のトップ画面には,顔写真とともにTwitterの画面が取り込んであります。このTwitterがきっかけで,本原稿の執筆を依頼されました。

連載 看護研究の基礎 意義ある研究のためのヒント・第1回【新連載】

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本連載のねらい

 研究を始める動機は人さまざまであろう。「看護研究」という言葉は,ある人には夢を,ある人には嫌悪感を,ある人には無関心をもって迎えられる。動機は何であってもかまわない。より多くの健康問題に苦しむ人々を援助するために看護研究は不可欠である。一方で,看護研究に取り組む人の労力が,適切な方法をよく知らなかったために無駄にされてしまうことがある。学問に王道はなく,研究と悩み迷うことはセットだと思う。しかし,宝がないところをいつまでも掘り続けているのは時間の無駄である。この連載が,看護研究を始めようと思い立った人や修士課程に進学した人などが,正当な努力を続けることの助けになればと願う。連載予定を表1に示す。

なぜ「看護研究」にこだわるの?

 F. ナイチンゲールの有名な『Notes on Nursing(看護覚え書)』(1860)は,サブタイトルに「What it is, and What it is not(看護であること,看護でないこと)」と続く。Nursingは,程度の差こそあれ動物がもっている命を育むための根本的な行為でもあるので,その重要性は日常の一見当たり前でさりげない行為のなかに埋没し,当時は全く理解されていなかった。理解されないどころか,当時は,後の歴史家からは「看護の暗黒時代」と称される時代で,看護という仕事は軽視されていた(杉田,1993)。だからこそ,健康の回復に不可欠な看護の要素を1つひとつ取り出し,定義し,その重要性を示し,専門性を高める必要があったのだと思う。

 「看護」の本質はart & scienceなので,100年以上経った現在においても,その重要性が理解されにくいという傾向はあると思う。ちなみに,兵庫県立大学看護学部の名称は「College of Nursing Art & Science」で,赴任当時は少々戸惑いもあったが,いまは実に深く,よい名称であると思っている。私が「看護研究」ということにこだわる理由の1つは,このように看護の重要性が簡単には見えにくいということによる。

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看護研究
44巻1号 (2011年2月)
電子版ISSN:1882-1405 印刷版ISSN:0022-8370 医学書院

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