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はじめに
看護研究や看護実践の現場で,質的研究の1つの方法として「現象学的」研究が注目されるようになって久しい註1。けれども,その場合の「現象学」がどのような内実をもち,またいかなる「方法」を用いるのかということになると,必ずしも明確ではないのが実情である。現象学の創始者フッサール(Edmund Husserl, 1859-1938)が『論理学研究』第2巻(1901)で初めて「現象学」の理念を表立って提示してから約半世紀,当時メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)はその著『知覚の現象学』(1945a/1967)の序文を次のように書き出した。
現象学とは何か。フッサールの最初期の諸著作から半世紀も経ってなおこんな問いを発せねばならぬとは,いかにも奇妙なことに思えるかもしれない。それにもかかわらず,この問いはまだまだ解決からはほど遠いのだ。…(中略)…性急な読者なら…(中略)…一体自分を定義するまでにも至っていない哲学が果してその周りで立てられている全評判に値いするものなのかどうか,そんな哲学はむしろ神話や流行にすぎないのではないかと,訝しくも思うことであろう。
(メルロ=ポンティ,1945a, p.If/1967, pp.1-2)。
メルロ=ポンティが当時直面した状況は,それからさらに半世紀以上を経たいま,ほぼそのまま現在の「現象学的」看護研究にもあてはまるように思われる。「現象学的」看護研究と銘打たれた研究は,数多くみられるが,その内実はさまざまで,方法もまちまちである。一体,そのような「現象学的」看護研究は信頼に値するものなのだろうか。単なる流行にすぎないのではないか。私たちは,現象学的看護研究の「現象学的」たるゆえんはどこにあるのか,またその「方法」とはどのようなものであるべきなのかを,改めて問い直す必要に迫られているのである。
今日の「現象学的」看護研究が多様で容易に見通しが利かないことの一因は,「現象学」という哲学そのものの展開の歴史に深く関係している。メルロ=ポンティ自身は,上述の現状認識に立って,『知覚の現象学』では,従来の現象学の文献解釈に囚われることなく自らの現象学――いわば身体と身体によって生きられる世界経験の現象学――を展開したが,今日の私たちは,「現象学」がその創始者フッサールにおいて,すでに幾度かの転回をとげつつ,このメルロ=ポンティも含め,ハイデガー(Martin Heidegger, 1889-1976)やサルトル(Jean-Paul Sartre, 1905-1980),レヴィナス(Emmanuel Levinas, 1906-1995)など多くの哲学者たちによって批判的に継承され,「現象学運動」註2と呼ばれる一大思想運動となって多様に展開したことを知っている。しかしこの批判的継承と多様な展開の結果,「現象学」は「事象そのものへ!」という根本精神こそ受け継ぎつつも,その具体的内実は各現象学者によって,しかもその思想の展開の各時期において,時に全く異なったものとなり,またそれに伴って方法も大きな異なりを見せることとなった。「現象学」という哲学は,このように独特の展開を遂げてきたのである註3。
筆者のみるところ,現象学的看護研究はこれまで,以上のような現象学運動の多様な展開のなかで,現象学をその方法として取り入れてきた。しかし,どの現象学者のどの時期の思想に基づいて「現象学的」看護研究を行なおうとしたかによって,その内実も方法も異なっていたのであり,そのことが全体として,「現象学的」看護研究の「現象学的」たるゆえんをみえにくくする大きな要因ともなってきたのである。
そこで本稿では,「現象学的」看護研究がもつべき「現象学」の意味とその方法を明確にするために,まず現象学的看護研究の諸流派に関する従来の分類を確認した上で,より現状に即した筆者自身の見方を提示する(第1節)。そしてこれまでの代表的な「現象学的」看護研究のいくつかを筆者自身の見方にしたがって概観し,批判的考察を加えた上で(第2節~第5節),最後に「現象学的」看護研究において「現象学的」とは何であり,また何であるべきなのか,そしてそのための「方法」はどうあるべきなのかを,見極めることにしたい(第6節)。
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