看護研究 49巻4号 (2016年7月)

増刊号特集 看護と哲学─共同がもたらす新たな知

西村 ユミ
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 さまざまな状態に置かれている人々や自身の経験を問い直す際に,哲学・思想の諸視点が手がかりを与えてくれることがある。企画者はこれまで,現象学という現代思想から多くの手がかりを得て,看護の協働実践や彼らの看護師としての経験,病いや障害を患う人々の経験を探究してきた。併せて,現象学やケアを足場として組織された多学問分野の研究者との共同研究を通して,さまざまな哲学の考え方や視点が,私たちが自覚していなかった次元の経験に気づかせてくれたり,それ自体が“世界を見ることを学び直す”営みでもあることを知った。実際に,看護実践や患者の病いの経験は,素朴に理解していたこととは異なった意味をもって立ち現われ,時にそれに驚かされもした。例えば,看護師として私たちが成り立つのは,ケアを受ける患者という他者の存在に依存していること。自己は,他者との接触において,他者がそれとして知られるのと同時に,浮かび上がること。自己は,個として成り立つ以前に,相互主観性という社会性として成り立っており,これに支えられて理解が生まれるということ。何かがわかることは,何かができることと対になって成り立っていること,等々。

 さらに,このような取り組みを通して,哲学との関係を問い直すことにも思考を巡らせてきた。そして,次のように考えるに至った。経験を探究する研究は,その目的を達成するために哲学を手がかりとする,という方向性をもっているばかりではない。具体的な事象は,哲学の考え方に支えられてその成り立ちを露わにするが,同時に,その哲学的な考え方は,具体的な事象の記述の中からも発見される。つまり,具体的な事象と哲学は,このような相互補完的な関係をもっているのであり,だからこそ私たちは,研究の過程においてこの両者を幾度も往復するのである。双方のいずれもが探究の足場となり,互いが互いから手がかりを得つつ,一つの研究を成就させる。臨床哲学,ケア学と呼ばれるような研究領域がこれに近いかもしれないが,本特集では,事前にこれを命名しない。むしろこの特集を通して,新たな研究領域が創造されていくことをめざしたい。

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1.はじめに

 筆者は,看護師でも医師でもなく,現象学という哲学を専門とする一介の大学教員にすぎない。看護実践についてはずぶの素人である。けれども,縁あって15年余り前から現象学をベースにした看護理論や看護研究に関心をもち,看護系の大学や大学院,幹部看護教員養成講習会などで「看護の現象学」を主たる内容とする授業を継続的に行なってきた。また2009年からは,「ケアの現象学」をテーマとする科学研究費補助金の研究プロジェクトを自ら立ち上げ,現象学や看護学の研究者たちと共同研究を行なってきた註1。科研費プロジェクトやそれとのつながりで参加した臨床実践の現象学研究会註2では,看護現場での多くの具体的事例を学び,また2013年4月からは首都大学東京大学院人間健康科学研究科の博士後期課程で,本特集の企画者である西村ユミ教授が行なっている「看護哲学」の授業に非常勤講師として参加し,フッサール(Edmund Husserl, 1859─1938),ハイデガー(Martin Heidegger, 1889─1976),メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908─1961)の哲学のテクストを読み,西村教授および看護学専攻の院生たちとともに,看護の営みについて,看護学と哲学の双方の視点から考え議論するという貴重な経験もさせていただいている。

 そこで本稿では,こうした筆者の経験を踏まえて,看護と哲学(とりわけ現象学)との関係について,いくつかのことを考えてみたい。まず,以上のような経験を重ねた哲学(現象学)研究者としての筆者の立場から,看護学研究者や看護実践家がほとんどと思われる本稿の読者に向けて,「哲学」がどのような学問であり,なかでも「現象学」という哲学がどのような特徴をもつのかを,筆者なりの仕方でごく簡単に概説することにしよう(第2〜4節)。その上で,看護実践の現象学的研究の優れた成果の1つとして西村ユミ氏(以下,西村)の新著『看護実践の語り─言葉にならない営みを言葉にする』註3を取り上げ,現象学という哲学が看護研究にどうかかわり,どのように活かされているのかを明らかにしてみたい(第5節)。しかし看護と哲学との関係は,哲学から看護への一方向的なものでは決してない。むしろ,こうした現象学的看護研究を通じて,哲学としての現象学自身も,そこから多くを学ぶことになるのであり,本稿ではこの点をぜひ強調しておきたいと思う(第6節)。最後に,看護と哲学の相互の学び合いによって,新たな「看護哲学」の可能性が開かれうることを,わずかなりとも示すことができればと考えている(第7節)。

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はじめに

 看護の臨床実践には,従来の哲学があまりテーマとして論じてこなかったいくつかの特徴が含まれている。それは,対人的・身体的なケアの行為であること,共同的な実践であること,専門的知識と経験の両方が有意味に働くことなどである。これらは必ずしも看護だけの特徴ではないが,看護の具体的な実践の中には,これらのこととも関連して,まだ語られていないことが多く含まれていると思われる。それらについて語るためには,実践の中から新たに言葉をつくることが必要となるだろう註1。既成の概念枠に頼らず,「事象そのもの」を注視することから記述を始めることは,現象学の基本的な方法的格律である註2

 看護実践に関する現象学的記述の1つの方法は,看護師にインタビューをしてそれを分析するというやり方である。本論では,インタビューの中で共同実践としての看護に必要なことについて話してくれたある看護師の語りを分析することから,そこに含まれるいくつかの特徴を取り出したい註3。このような実践の記述は,看護とは何かという問いに対する答えの一部であるとともに,哲学としての現象学にとっても,行為論あるいは人格を含む生活世界の具体的な解明の一部として重要な意味をもつ。本論は,インタビューの一部とその分析を示した後,その分析に含まれる方法的前提について簡単に述べ,最後に分析のまとめと考察を行なう。

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はじめに

 言葉を使って,痛みを他人に伝えることはできるか。まずは,経験を振り返ってみよう。痛みに襲われると,人は,まるで言語を習得する前の子どもに戻ってしまったかのように,「ううー」や「ああ!」という(うめき)声を出すことしかできなくなる。あるいは,少し落ち着いた状態になり,言葉でその痛みを説明しようとすれば,今度は,「チクチクする」「キリキリする」のような擬声語や,「刺すような」「しめつけられるような」といった比喩に訴えるしかない。痛みについて正確に伝えようとすればするほど,私たちは言葉の欠如を実感するのではないか。こう考えてみると,痛みを他人に伝える手段として,言葉は無力だと結論したくもなろう。しかし,本稿の目的は,まさにこの無力感を絶つことであり,先に挙げた発声や比喩は,痛みに関する真正の情報を伝える立派な発話であって,十全な意味で「言葉」なのだ,という点を示すことに他ならない。

 痛みは結局,他人とは分かち合えない,という「共有不可能性(unshareability)」のテーゼに対しては,すでに,メルロ=ポンティらの現象学やウィトゲンシュタインの哲学に影響を受けた人たちが反論を提出してきた。それによれば,「痛み」は顔をしかめたり,手を伸ばしたりする,身体の表情やジェスチャーのうちにすでに表現されており,私たちはその身体の動きのうちにすでに他人の痛みを知覚している。実際,たとえその人が無言であっても,他者の痛みに反応して,手助けをするように促されることはあるし,むしろ,その傍らを単に通過したなら,痛みに苦しむ人を無視したことに良心の呵責を覚えもする。痛みはその意味で外からも「見える」ものであり,決して,秘匿された私秘的な出来事などではないのだ,と註1

 私は,現象学者やウィトゲンシュタイン派の議論は原則的に正しいと考えているが,しかし,仮に,痛みを伝える手段としては,言葉ではなく,結局は,表情や身体動作のほうが適しているのだ,という考えに進むとすれば,言葉を不当に軽視することになる,という警戒心も抱いている。言葉を用いて痛みを他人に伝えることはどのように可能なのかを探求することには,格段の重要性がある。そう考える理由は「看護と哲学」という今回の特集のテーマにかかわっている。

 第一に,言葉は痛みを癒す,という,患者と医療従事者の双方からしばしば指摘される事実がある註2。痛みに関するコミュニケーションは拙い表現によるもののように見えても,どういうわけか,痛みの軽減に関して一定の効果を示すことがある。そのしくみを─理屈を超えた不可思議な力によるものなどとは考えずに─解明しようとすることは,看護研究と哲学の興味深い結節点になるのではないか。

 第二に,病棟のカンファレンスにおいて,看護師は患者の痛みについての情報を別の看護師に報告しなくてはならない註3。目前の患者と看護師という対面的関係だけでなく,看護の実践をより大きな時間幅で見れば,言葉を用いて痛みを表現することは必須であり,表情やジェスチャーのもつ情報の豊かさのみならずその限界も認識することは,痛みへの対処の適切さや正確さが問われる以上は,不可欠である。

 以下での議論の流れを述べておこう。まず,第1節では,「ううー」や「ああ!」といった発声を,無意味な音声と見なすことは不合理であり,特定の「発話行為」として理解することが妥当であることを示す。これらの発声は,通常の状況においては,痛みに対する何らかの対処を求める呼びかけの行為であり,単なる音声ではない。この見解を論じるなかで,語ることがなぜ痛みを癒しうるのかという問いに対しても一定の回答が可能になる。その際,鍵になるのは,発話行為を通じた他者とのコミュニケーションによって,身体の痛みのほうに独占的に集中していた意識が世界へと向きを変え,痛みが意識の背景に退くというプロセスである。

 ただし,第1節で扱う「ううー」などの発声は,私が,快さや落ち着きの状態ではなく痛みのなかにいること,つまり,私の状態が何であるか(what)を伝えることはできても,その痛みが,ではどういう感じなのか(how)について,(その強度以外には)多くを伝えることはできない。

 そこで,第2節では,私たちが痛みの感じを伝えるために用いている擬声語や比喩という言語表現について考察する。「キリキリする」や「刺すような」といった表現は,本当の意味で事柄を記述する真正な言葉ではない,という印象は,比喩を含む文を単なる修辞的効果を狙ったレトリックの一部だと見なす習慣ゆえだと思われる。しかし,現代の言語哲学において,こうした考え方は比喩の本質を損ねるものとして批判されている。本稿では,言語哲学的考察を参照しながら,「キリキリする」のような比喩的表現も痛みの性質を実際に表示する真正の言語であることを論じる。もっとも,仮に比喩文に何らかの伝達の力があるとしても,学問や医学の言語のような正確さはないだろうと思われるかもしれないが,実際には,医療従事者が痛みを評価するために用いる質問表〔マギル疼痛質問表(McGill Pain Questionnaire;MPQ)〕の中でも比喩は重要な役割を果たしており,それによって診断や投薬の判断についての意味ある情報が引き出されていることを指摘したい。

 以上を通じて,言葉によって私たちは痛みをどのように他人に伝えているかを解明していく。そのなかで,この種のコミュニケーションにおいては,相手の発話を文脈的に解釈する能力が聞き手に求められることも強調されるだろう。周到なお世辞も相手がそれをお世辞として理解しなければ空しく浮遊するのと同様に,痛みについて発せられた言葉も聞き手がそれの言わんとするところを理解しなければ無力になる。痛みに関して言葉は無力だという一般的印象は,痛みの言語の聞き取りに失敗しがちな私たちの傾向の反映かもしれない。

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1.身体論との出会い

 私は2003年から,身体論(身体の現象学)勉強会に参加している。当時の静岡県立大学看護学部の佐藤登美教授,奥原秀盛准教授(現文教学院大学保健医療技術学部教授),西村ユミ准教授(現首都大学東京大学院人間健康科学研究科教授)の声かけによって始まった勉強会には,大学および大学院の学生や教員,近隣の病院勤務の看護師などが参加した。

 勉強会は毎回2時間程度で,参加者が身体論に関する書籍の担当ページを読み解き,プレゼンテーションを行なった後,意見交換をするという形式で行なわれた。最初に読み解いていったのは『精神としての身体』(市川浩,1975)である。1人で読んでも難解で,さっぱり頭に入らないばかりか眠りを誘う本だった。そもそも「身体論」については勉強会に参加するまで聞いたこともなく,それが哲学であるということさえ知らなかった。初回は,未知の領域ではあるが「誘われたから行ってみるか」程度の気持ちで参加した。

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1.はじめに

 「どうやって歩いていいかわからない」「病気になる前は,どうしていたのかわからない」。脳神経外科病棟や回復期リハビリテーション病院で,しばしば耳にした患者らの声である。その声に促され考えてみると,答える術が見当たらないことに気づき愕然とした経験がある。歩くという動作を解剖生理学的に説明することは可能であり,動作を分解した説明は,患者らの問いに部分的には答えている。だが問いの核心は,別のところにある。医療者からそのような説明を日々受けながらも,それができないこと,つまり“歩いていた”ようにはできない不思議さ,わからなさが問われていた。

 私たちが身体的存在であるということは,どのような経験をしていることなのか。ひとたび身体を病むと,患者らが語っていたように,日々行なっていたことを知る難しさが出現する。他方で,普段の生活においては,あまりにも当たり前すぎて,それらが問いの俎上に載ることもない(市川,1992)。看護においても,ケアを通して患者のからだに日々触れてはいるが,患者らがどのように彼ら自身の身体を経験しているのか─いないのかを十分に理解してかかわっているとは言い難く(阿保,2015;池川,1991),いま一度“生きるからだ”に立ち帰る必要がある(佐藤,西村,2014)のではなかろうか。

 本稿では,身体に関する上述の難しさを乗り越えるために,病んだ身体から回復するという経験に着目する。具体的には,博士論文註1の調査における研究参加者註2の1人で,非外傷性脊髄損傷患者Aさんの経験を入口に議論を進めていきたい。なかでも,感覚を失うこと─戻りつつあることを通してからだをどのように経験しているのかを,記述していく。そこでは,自分のからだであるとわかるということが,どのように成り立っているのかも,同時に開示されることが期待される。

 その際,からだという当たり前で,自明のもの,それゆえに見えづらいものに接近することを助けてくれるのが,現象学的な思想である。伝統芸能など身体を手がかりにした学びについて探究している臨床教育学者の奥井(2015)は,「身体的経験は,いつも忘却されており,客観的に観察しようという試みそのものによってかき消されてしまうようなままならないものであるからこそ,丁寧な思索によって『記述』註3を進める必要がある」(p130)と,身体経験の特徴が現象学的な態度を要請していると述べている。以下では,Aさんの経験の分析を通して,事象と哲学との往復も示していきたい。

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1.問いの所在

慢性病者の“経験そのもの”とは?

 東さん(仮名)は,2013年にインタビューをしたとき,定年退職を間近に控えた会社員であった註1。彼は,30年近く前に2型糖尿病と診断され,およそ20年,主治医のもとへ毎月通っていた。自立した子どもたちとはたまに連絡を取り合いながら,最近は1人で暮らしている家の中の「整理」をいろいろと考えていた。

 そんな東さんは,約10年前に,生活における病いの経験を記述する私の研究(細野,2005)に参加し,長時間にわたって病いの経験を語っている註2。その研究は,私自身が経験した,入院を繰り返す糖尿病者への看護の難しさから,その生活を知りたいという動機に端を発したものであった。そこでは,東さんらの語りを通じてライフヒストリーを構成することで,生活における病いの経験を記述した。

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1.はじめに

 病院を変わって働く看護師は,新たな病院でどのような経験をしているのだろうか。病院を変わって働くことは,「大変だとは思っていたが,こんなに大変だとは思っていなかった」という声をよく耳にする。私がインタビューをした,病院を変わった経験のある看護師たちも同じようなことを語っていた。これは,本人たちが考えていたある予測と現実が違っていたということだろう。また,このような看護師たちの「1年目のように扱われる」「同期がいない一匹オオカミ」など,ネガティブな言葉に私たちは注目しやすい。

 では,何が新たな病院へ就職するときの予測と違っているのか。ネガティブな事柄として受け止められうる原因を探し,退職へつながらないように,それぞれに対応策を講じようという研究がすでにある(伊東,2010;小西,撫養,勝山,青山,2014)。これらの研究の成果からは,病院を変わった看護師の予測と新たな病院で経験している現実との相違や,新たな組織に社会化する過程については概観することができる。しかし,これらの研究では例えば,「1年目と同じ扱いを受ける」「新人扱いを受けて自尊心が傷つく」という,病院を変わる看護師がすでに「懸念」していた事柄,あるいは病院を変わったことによる「問題」として語られている内容が,どのような文脈において成り立っているのかということには触れられていない。

 そこで,本研究は,初めて病院を変わった看護師が,その経験を振り返り語ることを通してどのように経験を意味づけているのか,因果関係を探索するような自然科学的な見方をいったん棚上げし,データを断片化して文脈をそぎ落とすような方法からも距離をとり,1人ひとりの看護師の文脈をもって立ち現われる経験そのものを探求していきたい。併せて,「看護」の事象を分析するときに「哲学」がどのようにかかわるのかを考察する。

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1.個別者の学としての現象学

現象学vs既存の学

 現象学的な質的研究においては,参与観察とともにインタビューの逐語録分析が重要な手段となる。この研究は1つひとつのインタビューを個別に細かく分析するため,多くのデータを用いる研究から見ると妥当性に欠けると思われることがあるようである。しかし,「個別の事例だから妥当性がない」ということではなく,個別のデータの分析が妥当性を手に入れるための方法がある。現象学的な質的研究は,個別の出来事に意味を与える方法論である。現象学は自然科学とは異なる学問的基盤に則っており,そのことが個別者の学を可能にする。この基盤のうちの一側面にすぎないが,本論ではインタビューの語りの個別性が,語り手の身体の組織化の個別性と対応すること,言語学の知見がこの語りの分析の妥当性を支えていることを示したい。

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1.はじめに

 現象学的研究には,「難しい」という響きがつきまとっているように思う。実際に,現象学の哲学書は難しい─この点については,理解のために相当の時間と協力者を要する。この理解をどのくらい求められるのかがわからない─これは継続して議論している。どのように進めたらよいのか,方法が明記されていないために戸惑う─これは現象学自体が避けようとしていることだが,考え方や進め方の筋道は必要だと思う。

 ここに記してみて気づいたのだが,現象学的研究の,他の研究(方法)ではあまり問われない難しさは,この研究(方法)が現象学的な考え方自体は示していたとしても,それが,例えば看護研究を進める際に知りたい,「どのくらい」や「どのように」という問いに応じていないからであろう。しかし現象学は,この「どのくらい」「どのように」を,そのつど,取り組んでいる研究の目的や接近しようとする事象に従って検討することを要請する。鷲田(1997)も,現象学は「世界をそれが現われているかぎりでその現われにそくして問題にする。だからそこでは,現われの構造,つまりは,何かが何かとして何かに対して現われるときのその〈関係〉が問題となる」(p.8)と述べているとおり,現象学的研究においては,そのつど,目的や事象に即して問題や方法を検討し,それまでのフォーマットを換骨奪胎(捉え直)してつくり出していかなければならない。それは同時に,これまでもっていた自身の枠組みや前提を問い直したり,時にこれを棚上げしたりして(=これまでの見方に縛られずに),別の見方や枠組みを求めて探究を進めることでもある。

 言うは易く行なうは難し。これにはとても多くのエネルギーを要する。自身の存在自体が揺さぶられるような経験となるかもしれない。自分の前提を捉え直すことは,自分が立っている足場(=基盤)を組み換えることでもあるからだ。この研究に向かう態度が,この態度に馴染んでいないことが,難しさを生み出しているのではないか,と思う。

 本稿では,現象学的研究の考え方や態度を再点検する。これによって,実際の研究において何が重要視され,そこにいかなる特徴があるのかを見いだすことを目論む。先取りになるが,特徴として見いだされるのは,「そうではなくて」という現象学の思考のスタイルである。常に,「そうではなくて」と自らを問い直しつつ事象に立ち帰り,そこから経験の現われを形づくっていく。その取り組みを難しいとするか,やりがいや楽しみとするのかは,取り組む者の経験次第だろう。加えて,看護研究が現象学に何を学び,現象学と看護研究とがどのような関係にあることが期待されるのかを提案する。これも,現象学の思考のスタイルと深くかかわっていると推察される。

特別記事

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7年ぶりに日本で開催

 東アジア看護学研究者フォーラム(EAFONS)が7年ぶりに日本で開催された。日本看護系大学協議会(JANPU)が主催し,千葉大学が開催大学となり,3月14・15日の2日間,幕張メッセ国際会議場(千葉市)(写真1)に,12か国1002名の看護学研究者が参集した。日本からは812名の参加があり,次いで台湾137名,韓国12名,フィリピン11名,タイ7名などであった。

連載 英語論文を書くということ・5

考察を書く 余 善愛
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 前回,「考察」では新しいことは書かず,読者の反応を考慮して自らの研究結果を支持する,といったことを書きました。今回は「考察」に大事なことをもう少し述べたいと思います。

 「考察」とは文字通り,結果,ならびに結果を導き出した方法について考え,洞察を加える項目です。何度も述べていますが,研究者としての器が最も試されます。特に看護研究では,結果をどのように,個別の体験に拠るところの大きい看護というものに対して理論的かつ現実的に,妥当な解釈を与えるかが問われます。この問題は,連載の内容の範囲を超えて看護の科学とは何かを考えることにつながります。本連載では,論文を書くことに絞って述べるにとどめます。

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今月の本

INFORMATION

基本情報

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看護研究
49巻4号 (2016年7月)
電子版ISSN:1882-1405 印刷版ISSN:0022-8370 医学書院

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