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はじめに
言葉を使って,痛みを他人に伝えることはできるか。まずは,経験を振り返ってみよう。痛みに襲われると,人は,まるで言語を習得する前の子どもに戻ってしまったかのように,「ううー」や「ああ!」という(うめき)声を出すことしかできなくなる。あるいは,少し落ち着いた状態になり,言葉でその痛みを説明しようとすれば,今度は,「チクチクする」「キリキリする」のような擬声語や,「刺すような」「しめつけられるような」といった比喩に訴えるしかない。痛みについて正確に伝えようとすればするほど,私たちは言葉の欠如を実感するのではないか。こう考えてみると,痛みを他人に伝える手段として,言葉は無力だと結論したくもなろう。しかし,本稿の目的は,まさにこの無力感を絶つことであり,先に挙げた発声や比喩は,痛みに関する真正の情報を伝える立派な発話であって,十全な意味で「言葉」なのだ,という点を示すことに他ならない。
痛みは結局,他人とは分かち合えない,という「共有不可能性(unshareability)」のテーゼに対しては,すでに,メルロ=ポンティらの現象学やウィトゲンシュタインの哲学に影響を受けた人たちが反論を提出してきた。それによれば,「痛み」は顔をしかめたり,手を伸ばしたりする,身体の表情やジェスチャーのうちにすでに表現されており,私たちはその身体の動きのうちにすでに他人の痛みを知覚している。実際,たとえその人が無言であっても,他者の痛みに反応して,手助けをするように促されることはあるし,むしろ,その傍らを単に通過したなら,痛みに苦しむ人を無視したことに良心の呵責を覚えもする。痛みはその意味で外からも「見える」ものであり,決して,秘匿された私秘的な出来事などではないのだ,と註1。
私は,現象学者やウィトゲンシュタイン派の議論は原則的に正しいと考えているが,しかし,仮に,痛みを伝える手段としては,言葉ではなく,結局は,表情や身体動作のほうが適しているのだ,という考えに進むとすれば,言葉を不当に軽視することになる,という警戒心も抱いている。言葉を用いて痛みを他人に伝えることはどのように可能なのかを探求することには,格段の重要性がある。そう考える理由は「看護と哲学」という今回の特集のテーマにかかわっている。
第一に,言葉は痛みを癒す,という,患者と医療従事者の双方からしばしば指摘される事実がある註2。痛みに関するコミュニケーションは拙い表現によるもののように見えても,どういうわけか,痛みの軽減に関して一定の効果を示すことがある。そのしくみを─理屈を超えた不可思議な力によるものなどとは考えずに─解明しようとすることは,看護研究と哲学の興味深い結節点になるのではないか。
第二に,病棟のカンファレンスにおいて,看護師は患者の痛みについての情報を別の看護師に報告しなくてはならない註3。目前の患者と看護師という対面的関係だけでなく,看護の実践をより大きな時間幅で見れば,言葉を用いて痛みを表現することは必須であり,表情やジェスチャーのもつ情報の豊かさのみならずその限界も認識することは,痛みへの対処の適切さや正確さが問われる以上は,不可欠である。
以下での議論の流れを述べておこう。まず,第1節では,「ううー」や「ああ!」といった発声を,無意味な音声と見なすことは不合理であり,特定の「発話行為」として理解することが妥当であることを示す。これらの発声は,通常の状況においては,痛みに対する何らかの対処を求める呼びかけの行為であり,単なる音声ではない。この見解を論じるなかで,語ることがなぜ痛みを癒しうるのかという問いに対しても一定の回答が可能になる。その際,鍵になるのは,発話行為を通じた他者とのコミュニケーションによって,身体の痛みのほうに独占的に集中していた意識が世界へと向きを変え,痛みが意識の背景に退くというプロセスである。
ただし,第1節で扱う「ううー」などの発声は,私が,快さや落ち着きの状態ではなく痛みのなかにいること,つまり,私の状態が何であるか(what)を伝えることはできても,その痛みが,ではどういう感じなのか(how)について,(その強度以外には)多くを伝えることはできない。
そこで,第2節では,私たちが痛みの感じを伝えるために用いている擬声語や比喩という言語表現について考察する。「キリキリする」や「刺すような」といった表現は,本当の意味で事柄を記述する真正な言葉ではない,という印象は,比喩を含む文を単なる修辞的効果を狙ったレトリックの一部だと見なす習慣ゆえだと思われる。しかし,現代の言語哲学において,こうした考え方は比喩の本質を損ねるものとして批判されている。本稿では,言語哲学的考察を参照しながら,「キリキリする」のような比喩的表現も痛みの性質を実際に表示する真正の言語であることを論じる。もっとも,仮に比喩文に何らかの伝達の力があるとしても,学問や医学の言語のような正確さはないだろうと思われるかもしれないが,実際には,医療従事者が痛みを評価するために用いる質問表〔マギル疼痛質問表(McGill Pain Questionnaire;MPQ)〕の中でも比喩は重要な役割を果たしており,それによって診断や投薬の判断についての意味ある情報が引き出されていることを指摘したい。
以上を通じて,言葉によって私たちは痛みをどのように他人に伝えているかを解明していく。そのなかで,この種のコミュニケーションにおいては,相手の発話を文脈的に解釈する能力が聞き手に求められることも強調されるだろう。周到なお世辞も相手がそれをお世辞として理解しなければ空しく浮遊するのと同様に,痛みについて発せられた言葉も聞き手がそれの言わんとするところを理解しなければ無力になる。痛みに関して言葉は無力だという一般的印象は,痛みの言語の聞き取りに失敗しがちな私たちの傾向の反映かもしれない。
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