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1.はじめに
「どうやって歩いていいかわからない」「病気になる前は,どうしていたのかわからない」。脳神経外科病棟や回復期リハビリテーション病院で,しばしば耳にした患者らの声である。その声に促され考えてみると,答える術が見当たらないことに気づき愕然とした経験がある。歩くという動作を解剖生理学的に説明することは可能であり,動作を分解した説明は,患者らの問いに部分的には答えている。だが問いの核心は,別のところにある。医療者からそのような説明を日々受けながらも,それができないこと,つまり“歩いていた”ようにはできない不思議さ,わからなさが問われていた。
私たちが身体的存在であるということは,どのような経験をしていることなのか。ひとたび身体を病むと,患者らが語っていたように,日々行なっていたことを知る難しさが出現する。他方で,普段の生活においては,あまりにも当たり前すぎて,それらが問いの俎上に載ることもない(市川,1992)。看護においても,ケアを通して患者のからだに日々触れてはいるが,患者らがどのように彼ら自身の身体を経験しているのか─いないのかを十分に理解してかかわっているとは言い難く(阿保,2015;池川,1991),いま一度“生きるからだ”に立ち帰る必要がある(佐藤,西村,2014)のではなかろうか。
本稿では,身体に関する上述の難しさを乗り越えるために,病んだ身体から回復するという経験に着目する。具体的には,博士論文註1の調査における研究参加者註2の1人で,非外傷性脊髄損傷患者Aさんの経験を入口に議論を進めていきたい。なかでも,感覚を失うこと─戻りつつあることを通してからだをどのように経験しているのかを,記述していく。そこでは,自分のからだであるとわかるということが,どのように成り立っているのかも,同時に開示されることが期待される。
その際,からだという当たり前で,自明のもの,それゆえに見えづらいものに接近することを助けてくれるのが,現象学的な思想である。伝統芸能など身体を手がかりにした学びについて探究している臨床教育学者の奥井(2015)は,「身体的経験は,いつも忘却されており,客観的に観察しようという試みそのものによってかき消されてしまうようなままならないものであるからこそ,丁寧な思索によって『記述』註3を進める必要がある」(p130)と,身体経験の特徴が現象学的な態度を要請していると述べている。以下では,Aさんの経験の分析を通して,事象と哲学との往復も示していきたい。
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