看護研究 39巻5号 (2006年9月)

焦点 看護学における「生活者」という視点─「生活」の諸相とその看護学的省察

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はじめに

 「生活者」とは,勤労者や消費者などのような行動の形態や属性ではなく,それを超えて特定の行動原理に立つ人々,あるいは立つことをめざす人々を指すことが1996年に天野によって著されている(天野,1996,pp. 7-14)。そして,この「生活者」という言葉は,生産現場から発言する「労働者」や消費の場から発言する「消費者」に対置するものとして示され,その両方を含む全体としての生活の場から発想し,問題解決を図ろうとする人々として提示されている。「生活にはモノやサービスの消費だけでなく,その前提としての生産や労働があり,また最も基本的には人間の生死や環境との関わりがある。『生活者』という言葉は,生活が本来もっているそうした全体性と,この全体を自らの手のなかにおきたいと願う主体としての人々をさしている」(天野,1996,p. 13)と説明されている。

 「生活者」という言葉は,1980年代末から政治家の発言や企業広告に頻出しはじめ,それは瞬く間に多くの領域で用いられるようになったとされているが,近年,看護学の領域においても「生活者」という言葉が用いられるようになっている。しかしながらどのような意味で用いられているかは明確にされていない。看護学のなかで「生活者」がいつ頃からどのように用いられているか,およびどのような意図をもって用いられたかについて検討してみようと思う。

慢性の病いと「生活者」,そして「生活」

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はじめに

 日本では,慢性疾患および医療的ケアを要する在宅療養者の増加とともに,入院期間の短縮化により,訪問看護の必要性は高まっている。訪問看護は地域や居宅で生活する人を対象とする。それゆえ,対象者を「生活者」と呼びたくなるところである。しかし,天野(1996,pp. 9-11)は「生活者」について,多くの人びとが使い勝手のよいこの言葉を安易に使うと批判した上で,あいまいなお守り言葉であるからこその,示唆に富んだ言葉として,その内実を改めて問い直してみる必要があるという主旨を,投げかけている。そこで本稿では,訪問看護の領域における「生活者」の概観とその意味を,文献をもとに検討する。また,「生活者」について考える上では,「生活」とはどのようなものかという設問が避けられない。よって,「生活」についても検討し,最後に,「生活」を支える訪問看護についての私見を加えた。

 ここで,「訪問看護」と「在宅看護」の2つの言葉について整理しておく。杉本・眞舩(2001,p. 5)は,在宅看護は看護が行なわれる場を表し,訪問看護は手段を表している,すなわち在宅看護を実現させる手段として訪問看護があると定義している。この定義に則れば,両語それぞれに論述を展開するべきところである。しかし,医学中央雑誌のシソーラス検索において,「在宅看護」は「在宅介護支援サービス」と同義になっている。本稿では「訪問看護」の領域での検索結果を中心に扱い,「在宅看護」の領域でのものを補完的に扱う。

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はじめに

 災害看護という概念は,1995年1月17日の阪神・淡路大震災をきっかけに広く看護者に知られることとなった。この大震災以前にも1990年にはじまった雲仙・普賢岳噴火災害や,北海道の南西部沖地震など多くの自然災害に見舞われていたが,近代的な大都市を襲った大型の直下型地震で6400名余りの犠牲者を出した阪神・淡路大震災は国内で他に例をみない。ライフラインが途絶し電力は約1週間で回復したが,上下水道は2か月,都市ガスは3か月と市民生活は不自由な期間が続いた。そのほかJR神戸線も復旧までに4か月の期間を要し,鉄道に代わり代替バスや自転車・徒歩が市民の交通の主要手段となった(図1)。このように広域かつ長期間にわたり住民生活の基盤が失われたという点で,阪神・淡路大震災の際の医療や看護に関する調査文献は他の災害に比べ件数が多い。そこで本稿では,主として阪神・淡路大震災に関連する研究を通して,災害看護における「生活者」の概念を検討する。

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はじめに

 健康教育は,衛生知識の普及を目的として1940年代に始まり,疾病構造や社会の変化とともに,知識を普及させ態度を変容させ習慣や行動を変容させるようなモデルから,健康のセルフマネジメント(自己管理)能力の向上を目的とした学習援助型の健康学習やエンパワメントなどのモデルに発展している(日本健康教育学会,2003,pp. 138-142)。現在では,健康を病気や症状や異常などの有無や程度から捉える「疾病モデル」ではなく,生命や生活や人生などを包括したライフ(life)との関わりで心身全体のよい状態やそれをめざすことに着眼した「ライフモデル」で捉えることで,疾病を除去したり軽減するという発想ではなく,正常な発達や加齢を維持・強化・保全し,自立度,自律度,生活能力,生活の質,生きがいなどを強め高めることを目標に取り入れることが重要であると考えられるようになっている(日本健康教育学会,2003,p. 14)。

 すなわち,健康教育においては,対象となる人々の疾病の理解だけではなく,生きることや生活を捉えることが求められており,それは自立や生活能力,あるいは生きがいを強め,高めることを意味する。本稿では,「生活者」「健康教育」をキーワードとして検索された文献のなかで,「生活者」という視点から,どのように「生活」が描かれているのかをみていこうと思う。

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はじめに

 精神看護の領域では長い間,「医療機関で入院治療中の精神疾患患者への看護」が主流であった。というのも,「精神障害者は何をするのかわからない危険な人」という社会の偏見が根強く,そのために精神医療の構造が大規模な精神病院への長期収容を中心としたものであったためである。

 精神病院が隔離収容の場としての機能を担っていた精神医療の長い歴史の転換点は,1987年の精神保健法の成立であった。そしてそれ以降,障害者基本法の成立,精神保健及び精神障害者福祉に関する法律の成立により精神障害者の自立と社会経済活動への参加促進の流れが加速度的に進んだ。そういった精神障害者を取り巻く環境の変化により,精神看護の対象は「精神疾患患者」から慢性の精神疾患をもちながら地域で暮らす「生活者」へと拡大していった。

 実際,「生活者」をキーワードに精神看護領域で報告されている文献の動向をみると,1983~1987年で2件しかなかったが,1988~1994年で5件,1995~1999年で8件,2000年以降19件と増加傾向にある。このことからも,精神看護の対象を地域で暮らす「生活者」としての視点で捉えようとする動きがあることがうかがえる。とはいえ,精神看護において「生活者」という言葉の定義がなされているわけではなく,またこれまでに精神看護領域における生活者としての精神障害者に関する検討がなされた報告は見当たらない。そこで今回,精神障害者を取り巻く環境が変化するなかで,精神看護において「生活者」という言葉がどのように用いられており,それにはどのような意味があるのか文献を通して検討してみたい。

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はじめに

 筆者に与えられたテーマは社会福祉における生活者および生活という概念について述べることである。

 社会福祉とは,単なる諸サービスの羅列ではなく,低収入や生活リスク,例えば傷病のような生活問題への対応の模索から始まった社会的努力,社会的方策である。その研究はいくつかの系譜をもっているが,貧困研究は社会福祉の核となる研究である。なぜ貧しいのか,それは具体的にどのような姿としてみえるのか,どのようにしたら解決することができるのかが問われ,追究されてきている。本稿は,今日の貧困の典型としてみなされているホームレスの事例を通しての生活者および生活に関する考察を行なう。「豊か」といわれる社会でなぜ路上生活を余儀なくされる人々が生み出されるのか,どのような人々なのか,どのような生活をしているのか,その解決のためには何が必要なのかを考えるなかからみえる生活者と生活概念について述べる。社会福祉の核としてなぜホームレスを取り上げるのかは後述するが,筆者はそこに社会福祉が対象とするべき私たち勤労者の典型をみるからである。

看護学において「生活者」の「生活」を描くための研究方法

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「慢性の病い」の語りとライフストーリー

 医療では,患者に問いかけ,患者の訴えに耳をかたむけながら,アドヴァイスするコミュニケーションプロセスが,重要な役割を果たしている。「語る」「聞く」という言葉のやりとりは,医療の現場で日常的に行なわれている。しかし,医療者も患者も双方が「説明しているのに,わかってもらえない」という気持ちを抱えることが少なくない。「語る」「聞く」という簡単にみえるコミュニケーションは,「ことばの前のことば」を含む複雑な対話プロセスである(やまだ,1987,2006)。

 医師や看護師など医療の専門家は,病状を「疾患(disease)」として診断し,治療し,ケアする。しかし,専門家と患者,互いの視点や立場の違いは想像以上に大きい。自己の思いこみにとらわれて,他者の視点に立てないと,互いのコミュニケーションはすれ違いが大きくなり,治療効果を上げられない。その多くの場合,医療側には患者の生活がみえていない(松岡,2005)。医療者は患者の生活,特にその当事者にとって病気がどのように経験されているのかを知らねばならない。つまり,当事者からみた病いの経験や意味づけ方,「病い(illness)」の語りを聞き取っていく必要がある(江口,2000;Kleinman, 1988)。

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はじめに

 本稿では,なんらかの「病い」を抱えながら「生活」を送り「人生」を歩む人々の経験や思いを探った面接調査研究の具体例を3編紹介したい。これらは,「病い」とともに生活をしている人自身が「生活者」として,どのように症状や障害を認識し,それとともに生活し,どう対処しているのかという「病い経験」(Kleinman, 1988)ないしは「主観的な経験」(Conrad, 2005)が,その人のQOL(生活の質)に大きな影響を及ぼす可能性があるということを前提にしている。誌面の制約上,「健康管理」「服薬」「セルフケア」といった範疇に限定的に光を当てるにとどめたが,いずれの研究においても「疾患(disease)」ではなく「病い(illness)」とともに生きる「生活(life)」に目を向ける作業をもしており,それぞれ重要な視点が提示されている。これら3編を通じて,「生活者」の「生活」を「描く(describe)」という作業において経験的に有効と考える基本的姿勢,さらには看護実践や看護教育に求められることについても考えていきたい。

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はじめに

 「看護学の焦点は,人間の健康であり,その目的は人間の尊厳をまもることである。看護学は,個人や集団の健康に貢献する」(日本看護系大学協議会,1999)と述べられているように,看護の重要な構成概念が健康であることは誰しも認識している。この健康について,能力の喪失や機能不全をめぐる人間独自の体験としての病気(illness)(Benner & Wrubel, 1989/1999)という考え,つまり人間の体験としての健康とはどういうものであるか考えてみたい。

 病気(illness)(Benner & Wrubel, 1989/1999)という考え,つまり人間の体験としての健康とはどういうものであるか考えてみたい。看護学がめざす目的は,「その人が常に尊厳をもって自分の意思を大切にして生活し,生き抜くことができることにある」。また,「看護は,その専門知識・技術を活用して人々がどのような健康状態であろうと,安心してその人らしく生活ができるように援助することを使命とする」(日本看護系大学協議会,1999)と書かれている。このように,看護とは,生活を切り口にして,人々の健康に貢献できるものと考えられていることがわかる。

 それでは,看護は生活をどのように捉えてきたのであろうか。オレムのセルフケア不足看護理論(Eben,1995)では,セルフケアは人間が日常生活を営んでいく上での基本的な行為を意味しており,そのセルフケアは人間的な相互作用とコミュニケーションによって学習され,普遍的・発達的・健康逸脱時のケアの要件を満たすために,連続して行為する意図的な行動であると考えられている。この考え方では,人の行為に焦点が当たっている。再び日本看護系大学協議会の看護教育に関する声明から引用すると,「看護は人間を全存在として対応する。看護職者が見る人間は,さまざまな身体部分の機能の総体ではなく,むしろ1つの統一体として存在する。看護学は,人間の苦痛や苦悩あるいは症状が,疾病によってのみ起因するのではなく,身体的・精神的・社会的に,全体として切り離して考えることのできないものとして捉える。看護学は,人間を生活する主体としてその生活の営みの中でとらえる」のである。ここでは,ベナーらの現象学的人間観にたって,「人であるとはどういうことか」,看護の重要な構成概念である「人間」と「健康(病気を含む)」から,看護において「生活」をどう捉えるかということを考えてみる。

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 人生や生活についてストーリーを「物語る・語る(telling)」ということは,私たちにとってあまりに本質的で基本的であるため,その重要性に気づいていないことが多い。私たちは「ストーリー」という形で考え,話し,そして人生を意味づける。自分の人生の断片についてのストーリーを友人や見知らぬ人にでさえ語る。人生について語るストーリーには,不朽のテーマや普遍的なモチーフがあり,それは,私たちの内面の真実について何世代にもわたり語り継がれてきた何千もの民話や神話や伝説のバリエーションの1つである(Narayan & George,本書訳注1)39章参照)。このようにストーリーは私たちを自分たちのルーツと結びつける。

 昔の伝統的な社会において,ストーリーは人々の生活の中核的な役割を果たしていた。そのストーリーが人生における時間を超越する要素を伝えるとすれば,それは完全なるストーリーなのである。長い間語られ続けたストーリーには人生の教訓や不朽の価値観が包摂されており,そのようなストーリーは,不朽かつ普遍的なパターンをもつ。それらは,別離(separation),移動(transition),統合(incorporation)(van Gennep, 1960)という形,あるいは誕生(birth),死(death),再生(rebirth)(Eliade, 1954)という形,または出発(departure),行動(initiation),帰還(return)(Campbell, 1968)という形で表される。これらのパターンはいわば青写真のように計画されており,独自性があり,そのなかでストーリーは対抗する事象間のバランスをとっている。実際,これらのパターンはストーリーの構想の基礎を成し,そうあるべき過程に沿って,ストーリーの要素を語り手が覚えておくのに役立つ。

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はじめに

 医学研究の進歩は,人々の健康を維持・増進する生活について解明し,感染症を予防するための生活,肥満や高血圧を予防するための生活,糖尿病が悪化しないための生活など,有効とされる生活上の知識を豊富に提供している。しかし,一般的に有効とされている知識があったとしても,実際の生活のありようは個々人によって異なり,健康や病気のありようも多様である。看護は,個々人の多様な実際の「生活」に関与する。たとえ,同じような病気で,同じような治療を受け,同じ病棟で入院生活を送っている人であったとしても,その入院生活は,その人の生活上の文脈に存在し,個々人によって異なるのである。日常の生活は,さらに個別的なものである。看護は,健康や病気といった状態への関与のみならず,生まれ育つ過程,老い死に至る過程といった,人々の「人生」の過程にも関与する。人の成長や死への過程が円滑に行なえるようなケアもまた,看護の役割である。

 すなわち,看護の対象は,人生を生き・生活している人間なのである。Leininger(1985/1997,p.29)は,看護を人間についての研究と実践の場であるとし,人間を知るために,自然のままの,その人々が慣れ親しんでいる生活のデータに価値があるという。看護の研究において,生活を描き出すことの意義は大きい。しかし,「生活」に関するデータは,主観的で個人的なものであり,容易に理解したり描き出せたりするものではない。例えば,糖尿病との診断は,ある人にとっては「これまでの食生活を続けられない,絶望的な体験」であり,ある人にとっては「これまでの食生活を見直す,建設的な体験」であるかもしれない。同じような生活上の出来事が生じても,それに対する認識や反応はさまざまなのだ。また,絶望的に感じていたことが,のちのちにはよい機会として変化するかもしれないし,建設的に考えていたことが,のちのちには絶望へと変化するかもしれない。人々の「生活」は,主観的・個人的であり,時間による変化を伴う。

 では看護研究において,多様で変化を伴う人々の「生活」に関するデータを,どのようにして得ることができるのか。最も一般的に用いられる方法は,インタビューである。語り手が,どのような出来事をどのように体験し感じ考えているのか,フィールドワークのなかで,あるいはインタビューの場を設定して,語りに耳を傾ける。語られる生活のストーリーは,私的なストーリーであり,健康上の問題やケアが大きく関連しているストーリーである。病気や健康上の問題をめぐっての,日常あるいは職場などでの生活に関する私的なストーリーを語ること,聴くことによって何が生じるのか。ここでは,生活に関するインタビューで生じることについて,看護研究に焦点を当てて述べる。

基本情報

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看護研究
39巻5号 (2006年9月)
電子版ISSN:1882-1405 印刷版ISSN:0022-8370 医学書院

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