はじめに—問題の所在
実践に関する事例研究の重要性は,さまざまな領域で指摘されている。看護学(Chesnay, 2017;黒江,2017),社会学(Flyvbjerg, 2001;水野節夫,2017),政治学(George & Bennett, 2005/泉川訳,2013),マーケティング研究(石井,2009)等の各々の領域だけでなく,さまざまな領域を横断する「フロネーシス的な社会科学(phronetic social science)」も提起されている(Flyvbjerg, Landman, & Schram, 2012)。
ところで,わが国で事例研究の意義を1970年代以降ずっと主張してきたのは,臨床心理学の河合隼雄である。河合は,大学定年の年に記した『心理療法序説』の中で,事例研究の特徴を以下のように述べている。
ある先生が不登校の生徒に対して,「何をしているか」と怒鳴りつけると,その子は学校に行くようになった,という報告をする。それは役に立つだろうか。不登校の生徒のなかには,怒鳴りつければ登校する子がいるということがわかった,という意味で少しは役に立つだろう。しかし,すべての不登校生に対して,その方法が有効ということはないので,ひとつの事例を聴いてもあまり役立たないのではないだろうか。
誰しもこのように考えるだろう。そこで,「普遍的」で「有用」な報告をすることが望ましいことは誰もわかっているのだが,それがないのである。つまり,人間は個々に異なる個性をもっていて,誰にも当てはまる方法など見つからない。もちろん,精神分析の考えによってとか,夢分析の方法を用いて,というような言い方をすると,大体において多くの人に当てはまるかもしれないが,大切なことは,個々の具体的なことなのである。「愛をもって」とか「一人一人の個性を大切に」などと言っても,ほとんど役に立たない。
そこで,個々の事例をできるだけ詳しく発表する事例研究ということが行われるようになった。それをはじめてみると,それが相当に「有用」であることがわかってきた。しかも,それは,たとえば対人恐怖の事例を聴くと対人恐怖の治療にのみ役に立つのではなく,他の症例にも役立つのである。それは,男女とか年齢とか,治療者の学派の相違とかをこえて,それを聴いた人がすべて何らかの意味で「参考になる」と感じるのである。そういう意味で,それは「普遍的」と言えるのだ。ここにいう「普遍的」は,はじめに述べた「普遍的」とは異なることに気づかれるであろう。
(河合,1994[1992], pp. 213-214)
1つの実践事例の結果は,いうまでもなく,別のさまざまな状況にそのままあてはめることはできない。他方,多くの人にあてはまるような方法は,一般的すぎて各々の状況においては「ほとんど役に立たない」のである。
そこで河合らは,「個々の事例をできるだけ詳しく発表する事例研究」を始めた。そうするとそれが相当に「有用である」ことがわかった。しかも興味深いことは,「対人恐怖の事例を聴くと対人恐怖の治療にのみ役に立つのではなく,他の症例にも役立つ」ということである。「男女とか年齢とか,治療者の学派の相違とかをこえて,それを聴いた人がすべて何らかの意味で『参考になる』と感じる」と河合は言う。
ここに事例研究の1つの意義が示されているだろう。ある事例をできるだけ詳細に述べるならば,その事例とは異なるような事例に対しても何らかの知見を与えるのである註1。
このことを河合は「普遍的」と呼ぶ。それは,誰にでもあてはまるような「普遍」ではなくて,事例研究を受け取る人たちの中でそれぞれ捉え直され適用されるような「普遍」なのである註2。このように「普遍」の意味を再考するところに,河合の論じ方の特徴がある。このような「普遍」に関して,河合(2013[1976], p.211)では「内的普遍性」あるいは「個人内普遍性」,また,河合(2001, pp.8-9)では「間主観的普遍性」と記されているが,臨床心理学の実践(心理療法)の科学性が河合の重要な課題であったためであろう註3。
ところで,河合の「間主観的普遍性」を,臨床心理学の山本(2018)は,R. E. Stakeの「自然な一般化(naturalistic generalization)」に引き寄せて論じている(山本,2018, pp.74-77)註4。
Stakeの「自然な一般化」は,「読者による一般化」であり(Wilson, 1979),山本の指摘通り,河合の「間主観的普遍性」とほぼ同じである。また「自然な一般化」は,Lincoln, & Guba(1985)における質的研究のTrustworthinessを保証する4基準註5の1つである「転用可能性(transferability)」の典拠となっている。
Stakeの「自然な一般化」ならびにLincoln, & Gubaの「転用可能性」は,質的研究の正当性に関する重要な論点として(教育学を中心に)しばしば論じられてきた註6。
この議論を検討することによって,(河合の「間主観的普遍性」等の)「実践の一事例研究で学ばれる事柄」に対する視座が明らかになり,この視座は,実践の事例研究に関する評価基準を再考することになるだろう。このことが本稿の目的である。
本稿(前編)の構成は,以下の通りである。まずStakeの「自然な一般化」とLincoln, & Gubaの「転用可能性」の基本的な発想をまとめる(第1節)。それから,「自然な一般化」等の過程に関する認知心理学の知見からの解明とその問題点を指摘する(第2節)。