書評
死なないロボットに自分の話を本気で語れるか—ケアする側にナラティヴがあるとき,対話と承認のケアが動き出す
池田 喬
1
1明治大学文学部
pp.326-327
発行日 2020年7月15日
Published Date 2020/7/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1681201783
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対話や承認がケアになる。そういう言葉の不思議な力がある。ケア者が,被ケア者の人生に意味を与えているナラティヴに耳を傾けるとき,ただ聞いてくれる人がいるというだけで,医療的な治療・処置とは別の仕方で,ケアが起こっている。
ここまでは何度も語られてきたことだ。本誌の読者で「ナラティヴ・アプローチ」なんて聞いたことがないという人は稀だろう。しかし,こういうよくある語り方では対話的ケアが,当然のごとく,医療従事者の〈本業〉の外部に位置づけられている。現に,検査,診断,治療などの定式化された医療実践とは対照的に,言葉による対話的実践にはほとんど名前もなく,診療報酬の対象にもならない。ナラティヴによるケア力の背後には相当な経験やスキルがあるはずなのに,それらが特別なものと見なされていない。結果,よき聞き手たれといったスローガンでナラティヴ・アプローチは終わらせられがちだ。
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