看護研究 47巻7号 (2014年12月)

特集 看護を語る 看護を創る

西村 ユミ
  • 文献概要を表示

 看護は,さまざまな場所で,さまざまな状況で,さまざまな人々によって語られている。看護師同士で情報を交換したり申し送ったり相談をしたりしたときに,後輩の指導をしようとしたときに,自分の実践を振り返るような事態が起こったときに…。それらは,看護実践のあるスタイルを表現しているが,多くは実践に埋めこまれている。

 私は,このスタイルを探求するため,多くの看護師の語りを聴き取ってきた。わくわくするような語り,ドキドキする語り,しんみりする語り等々,いろいろな語りがあった。例えば,終末期にあって苦しむ患者のその状態をなんとかしたいと思いながらも,何もできないまま看取ったとき,自分の存在や実践を自ら問わざるを得なくなる。それが,インタビューの場で語り出されると,その語りに促されてその意味が捉え直される。それと同時に,何をすることが看護であるのかが発見される。感覚的に把握した患者の意識状態は,科学的な根拠がないとされ,言葉にしたり記録にとどめたりするのが難しいことが多い。ある看護師がその感覚を語り始めたとき,とめどなく芋づる式に言葉が生み出されてきて,驚いた。語り手自身も驚いていた。

  • 文献概要を表示

I.はじめに

 「実践を語る」というとき,多くの場合,いわゆる医療現場における実践をイメージすることが多いのではないだろうか。しかしながら,看護の実践の場は,医療現場のみではなく,地域における現場もあり,筆者は,医療現場とは異なる,地域における特有の実践と実践の語りがあると考える。

 本稿では,地域における現場として,訪問看護と地域包括支援センターの現場を取り上げ,それぞれにおける取り組みを紹介しながら,「実践を語ること」と「捉えなおされた実践を語ること」について検討することとした。

  • 文献概要を表示

I.はじめに

 急激な生命の危機状態にあるあらゆる年代の人々に対して,場や疾患,病期を問わず専門的なケアを提供するクリティカルケア(山勢,2006;井上,2007)。その中心的役割を担うのが集中治療室(Intensive Care Unite;以下,ICU)である。ICUの看護師に求められる技,その一つが重篤で不安定な状態にある患者の変化をいち早く捉えるための専門的かつ高度な知識や技術,臨床判断能力である。これらの技は熟達すればするほど自動化され,一つ一つを気に留めながら実践することなどなくなってしまう。ショーン(Schön, 1983/佐藤,秋田訳,2001)は実践に繰り返しという要素があることを前置きした上で,「日々の実践において有能な実践家は,適切な基準を言葉では述べることができない質の判断を無数に行ない,ルールや手順として述べることのできない技能を実演している」(p.77)と述べる。

 しかし,言葉にできないほど熟達した技術は,時として看護師に不全感を感じさせてしまう(森田,2006;山口,江川,吉永,2013)。筆者自身もクリティカルケアで十数年勤務したが,経験を重ねていくにしたがって自らの実践,なかでも意識障害患者への実践が機械的に思われ,「一方通行」で「手ごたえ」が感じられなくなっていった。そして,それらは実践の繰り返しのうちに「かかわりの実感のなさ」として,静かに蓄積していった。実践家は同じタイプの状況に繰り返し出会うことで,「次第に驚かなく」なり,実践がより反復と決まりごとになるにつれて,自分がいましていることについて考える重要な機会を逃すと言われている(Schön, 1983/佐藤,秋田訳,2001, p.104)。つまり経験を重ねることが,自らの実践の意味をはっきりとつかめないものにしてしまうのである。筆者自身も感じていた不全感や実感のなさは,経験を重ねることによって実践の意味を見失っていたといえるのではないだろうか。

 そこで本稿では,ICUで繰り返し行なわれる「観察」という実践の場面から,熟達した看護師にとって日頃当たり前と思われている何気ない実践とそれに関する語りを手がかりに,看護師自身が「語ること」によって,自らの何気ない実践の意味に気づいていくプロセスを記述していく。

  • 文献概要を表示

I.はじめに

 子どもが病気や障害をもちながら家で生活するということは,両親に子どもを養育する役割だけでなく,投薬や医療的ケアなどの「治療的役割」を遂行して子どもの健康を維持する役割が,日本の社会では期待される。その役割は,子どもの病気や障害が重度であるほど,子ども自身の健康を維持する難しさが増し,役割遂行の過重は増すばかりである。

 なかにはその役割を遂行することが難しくなり,家族役割を説明する概念の中で「役割緊張」と呼ばれる(Harmon Hanson & Boyd, 1916/村田,荒川,津田監訳,2005)状態になることもある。障害がある子どもの家族の場合,「役割緊張」は子ども自身の体調悪化や治療的役割を担ってきた両親,特に母親の不眠や体調不良(中川,根津,宍倉,2009),健康な兄弟姉妹の不満行動となって家族内に現われる。しかし,母親が自分の辛さを口にしない傾向があるため,病院や医療福祉施設で子どもと家族を支援する医療者がこのような状態に気づくことは稀である(山本,2011a)。

 ところが,筆者が看護師としての実践経験10年以上の看護師を対象に行なったインタビュー調査では,看護師は目に見える些細なことに「感受性を高めて観察」を行ない,「何かあることを察知」し,母親から看護師に相談するように仕向ける「危機的状況の早期把握」という技術をもっていることがわかってきた(山本,2011b)。もちろん,看護師が観察したことが何であるのかは,観察そのものからは与えられないため,インタビューでは看護師が意識的にそのものを観察する理由に気持ちを傾けて話を聞くことで,実践経験の積み重ねによってつくられた看護師の認識枠組みを,それができ上がるプロセスと一緒に知ることができた(山本,2011b)。

 この認識枠組みは自前の理論であるために看護師各々によって異なってはいたが,家族が示す言動を危機的なサインとして捉える点で共通するものがあった。このような看護師の語りは「うまくいった看護」の語りであり,自前の理論をつくっては実践の中で検証を繰り返し,「あっ,やっぱり!」という意識が積み重なるため,インタビューの場で何を語ったらよいか戸惑っていた看護師も,話を始めると次々に語ることが多かった。

 ところで,看護実践の中には意欲をもって取り組んでも難しさを感じ,「うまくいかない看護」もある。このような看護の語りはわれわれに何を示唆してくれるのだろうか。同じように障害がある子どもとその家族にかかわる看護師の実践において,家族とかかわることに難しさを感じている看護師の語りを分析し,うまくいかない看護の意味を考察していきたい。

  • 文献概要を表示

I.はじめに

 本稿で注目する看護の語りは,緩和ケア認定看護師とがん看護専門看護師の看護実践の経験と,その経験に対するいまの思いの語りである。この語りは「終末期看護のやりがいとは何か」をテーマとする研究協力を依頼したインタビューの一部である。

  • 文献概要を表示

I.はじめに

 終末期に限らず,病いがもたらす人の苦しみに寄り添い,その苦しみを和らげるという緩和ケアの目的を実現させていくことは容易ではない。実践の場では目前の患者の苦しみを和らげるために,普遍的な知識や理論を下敷きにしつつ,個々の患者や家族に即した看護行為を個別の文脈において生み出すことが必要となる。看護師は,そのような看護をどうやって生み出しているのだろうか。このような疑問から,池川(2009)の言う「為すことに含まれる知」と表現される実践知への関心をもった。「個別な状況にかかわる知」(家高,2013b)は,看護師たちの実践の中に埋められている。そこで,これまで取り組まれた実践知に関する研究(西村,2011;正木監修,黒田,瀬戸,清水編,2007;佐藤,2007)を参考に,緩和ケアに関する実践知に接近したいと考え,看護師の語りを聞いた。

 今回は,急性期病棟での緩和ケアを語ったAさんの語りに注目する。急性期病棟で緩和ケアが実践される場合,看護師のストレス(大堀,有賀,高宮,佐藤,2004)が強いなど,実践の難しさが報告されている。特に終末期ケアの困難さは,看護師の世代や経験年数によっても異なる(西脇,小松,竹内,2011)との報告もある。苦痛や死への援助は,看護師の経験によっても実践の生み出され方が異なってくるだろう。新人や中堅看護師などが混在する急性期病棟で,看護師たちはどのように緩和ケアを展開しているのか。看護の難しさだけでなく,困難な状況の中で看護師たちはその実践を展開しているだろう。このような実践の知に接近できれば,これからも増えていくだろう急性期病棟での緩和ケアのあり方を考える一助にできるのはないかと考えた。

  • 文献概要を表示

I.はじめに

 苦しんでいる人や傷ついた人を目の前にすると,なんとかしてあげたい,何か力になれないものかと思う。少しでも苦痛を和らげ,安心させ,落ち着ける環境や生活を取り戻す手助けができないものだろうか……。こんなふうに思うことは(すべての人にではないだろうが,ある種の人々にとっては),ごく自然な心の動きであろう。この,なんとかしてあげたいという思い,そこには苦痛や困難を体験している他者への共感があり,それがケアという営みの動因となる。

 しかし,この共感という心の動きが,同時にどれほどのストレスや疲労,傷つきを援助者にもたらすものかは,まだあまり知られていないように思う。「共感疲労」(compassion fatigue)とは,傷ついたクライアントをケアする中で,相手の外傷的な体験にさらされた結果,援助者もまた苦痛な体験をすることであり,「ケアの代償」ともいうべきものである(Figley著,Stamm編,1999/小西,金田訳,2003,p.3)。それは「二次的外傷性ストレス」とも「外傷性逆転移」とも呼ばれ,クライアントが体験している恐怖や怒り,絶望感,無力感,孤立無援感といった苦痛な感情を,その程度の差こそあれ,援助者もまた同じように体験することである(武井,2006, pp.112─113;Herman, 1992/中井訳,1996, p.217)。

 私たちは,2012年から2013年にかけて,災害時における援助者の二次的PTSDの予防をテーマとした研究で,東日本大震災の救援に赴いた看護師十数名へのインタビュー調査を行なった(武井ら,2014)。その過程で私は,多くの看護師がこの共感疲労を体験していることを再確認すると同時に,この概念について深く理解している人でさえ,それを避けることは難しいことを痛感した。

 本論では,インタビューに参加してくれた2人の看護師の体験について,詳細に検討することを通じてこの「共感疲労」について考え,それを乗り越えるための方策について検討してみたいと思う。

  • 文献概要を表示

I.はじめに

 多くの看護場面では,「触れる」「握る」「さする」などといった行為が日常的に行なわれている。近年臨床において,タッチやマッサージなど,患者に触れることでリラクゼーションや心身の安寧を図る技術を取り入れる機会も増えてきた。しかし,手を使ったケアはこのような特別なタッチやマッサージに限らない。保清や体位変換などの日常生活援助や,注射や創傷処置などの診療の補助のような看護ケアの多くも,手によって生み出されている。ウィルソン(1998/藤野,古賀訳,2005)は,「われわれの生活は,じつに巧妙に静かに手が関係する日常的な経験にあふれすぎているので,現実にどれほど手に頼っているかをめったに考えることはない」と述べている。

 手は日常の看護ケアのあらゆる場面ではたらいているが,巧妙に静かに,ケアに密着してはたらく手にかかわる経験について,常にはっきりと意識化しているわけではない。しかし,ふと触れた手によって,患者がなんとなく安心した様子になったり,苦痛が緩和したように感じたりということを経験的に感じることがある。このような手のはたらきは,状況に応じて直観的に差し出されるため,その効果のエビデンスが明らかにされているわけではない。

 タッチやマッサージ,触れることに関する先行文献を概観してみると,これらが心身に及ぼす影響について,生理的・心理的指標を用いて検証を試みているものが多い(森下,池田,長尾,2000;松下,森下,2003;本江,高橋,杉山,田中,2012)。また,質的研究では,タッチのタイプや意義を明確化することを試みた研究(鳥谷,矢野,菊地,小島,菅原,2002;大沼,2011)がある。川西(2005)は,日常生活援助場面での「触れる」ことに焦点を当て,参加観察と看護師の面接により,触れることの意義をカテゴリ化している。患者の身体にはたらきかける際の両義性,相互性に着目しているところが意義深いが,依然意図して触れる部分についての言及にとどまっている。

 一方,日常の看護場面に密着した手のはたらきに関する研究はまだ少ない。川原ら(2009)は,個別の状況において自然に行なわれている看護師の触れるケアを身体論的に分析し,触れるという行為はそれぞれの状況において即応的に,直観的に行なわれ,看護師と受け手の両者にとって深い感覚的・情緒的交流をもたらしていることを明らかにした。しかしながら,臨床における優先度は低い現状も指摘されており,今後も看護師や患者の経験を掘り起こし,共有していく必要性について述べられている。

 現象学者である滝浦(1977)は,「足は外界に対するわれわれの立脚点として,まだわれわれ自身に属しているのに対して,手は,われわれの外界に対する実践的接点として,両者に共属している」と述べている。この考えに基づくと,看護の技術的側面だけを抽出して客観的に分析する方法では,自分と相手(外界)との間の実践的接点として手がはたらく場面を捉えきれない可能性がある。また,自分と外界の両者に共属している手のはたらきを改めて見つめ直そうとしても,客観的に捉えることは難しく,自らの経験や感情を抜きにして語ることはできない。さらに,状況に応じて差し出される手,看護師自身も意図しているかいないかのところではたらく手について,実験的環境を整えるのは困難である可能性も考えられる。これらから,看護師が自らの実践を振り返り,語り直すという過程の中で,その経験や触れる意味を捉え直していくことで,看護場面においてはたらく手に関する経験が浮かび上がってくるのではないかと考えた。

 そこで,日常の看護場面ではたらく手について,看護師の経験の語りを通して明らかにすることを目的として本研究を行なった。そのことにより,看護ケアにおいてはたらく手について改めて問い直すきっかけとなるのではないかと考える。

  • 文献概要を表示

I.はじめに

 ある日,調査者の1人は,病棟師長に同伴して,フィールドワークを行なっていた。午前11時半過ぎ,そろそろ日勤の看護師が昼の休憩に入る時間だ。師長は,ナースステーションで明日,明後日の勤務表を見て,リーダーなどの役割を割り振りながら,モニター内の救命救急センター病棟(救命救急センターとICUの機能を併せ持つ病棟;以下,救急病棟)の患者を見ていた。

 そこに,電話がかかってきた。これを受けた師長は,3名の患者の名前とそれぞれの状態をメモしていく。話の内容から,救急病棟からの電話であることがわかった。すでに師長は,救急病棟に入院している患者を確認しており,その情報と照らし合わせて救急病棟の師長と相談をしているようだ。まさにそのとき,ナースステーションの動きが大きく揺らいだ。

(フィールドノーツ)

 D 救急カートを持ってナースステーションを出ていく。

 A 電話を持ったまま,ナースステーションの入口まで出て,様子を見る。「じゃあ,1回切りますね」

 D A師長のところに戻ってきて,「患者(1)さん,EPS後に血腫ができていて,いま,血圧が低くなって……」と報告して,再び病室へ戻っていく。

 C Dさんに続いて,患者(1)さんを見にいく。

 A 11号室(個室)を見にいく。そのまま患者(1)さんのベッドサイドへ。「C(係長)さん,11号室空けて移れるようにしておいたから」。そう言って,ナースステーションに帰りながら「あとは,任せておこう」とつぶやく。ナースステーションに戻って(救急病棟師長へ)電話をする。「やっぱり個室使うことにしましたから。すみません」

(D;看護師,A;師長,C;係長)

 この場面は,検査後に血腫ができて血圧が下がった患者の急変に,看護師Dさん,C係長らが対応し,A師長が,個室を確認してそれが使用可能であることを告げに行き,ナースステーションに戻って救急病棟の師長に,空いていた個室を病棟で使用することになったと伝えている場面である。このとき私は,A師長がナースステーションに戻りながらつぶやいた「あとは,任せておこう」という言葉が気になった。近くにいて一緒に動いていなければ気づかないようなつぶやきだったが(Goffman, 2000/串田訳,2000)註1,これには師長のある見方,そして実践の特徴が現われているように思われた(前田,2012)。

 本稿では,このつぶやきを手がかりにして,病棟師長が自らの実践をいかに成り立たせているのかを記述したい。併せて,この記述をもとに,本特集のテーマでもある「看護を語る」ことが,いかなる営みであるのかを検討する。

  • 文献概要を表示

はじめに

 2014年8月18〜20日,フィンランドの首都ヘルシンキにて,第8回International Council of Nurses(国際看護師協会;ICN)のInternational Nurse Practitioner/Advanced Practice Nursing Network(INP/APNN)のカンファレンスが開催された。ICNには11のネットワークがあり(表),中でもINP/APNNは最大のネットワークである。カンファレンスは2年ごとに開催され,今回は世界40か国以上から約800人の参加者があり,日本からは私たちを含め27名が参加した(写真1)。開催国フィンランドから260名以上の参加があり,興味深いことに台湾から102名の参加があった。

 INP/APNNには7つのサブグループがあり,鈴木はその1つである研究サブグループのメンバーとして参加し,コリーは演題発表を行なった(写真2)。本稿では,このカンファレンスに参加して得られた経験と,その考察についてまとめる。なお本稿で引用した講演・演題については本文中に番号を付し,巻末にまとめたので参照されたい。

連載 統計学のキー・ポイント─「検定」に焦点を当てて・6【最終回】

  • 文献概要を表示

対応のある場合とは?

 高血圧症の患者グループに減塩指導を行なったとします。実施した減塩指導は本当に効果があったのかを,どのように調べればよいでしょうか。1つの方法として,指導を受けた患者グループについて,指導前と指導後の塩分摂取量を測定し,指導後の塩分摂取量が指導前よりも少なくなっていれば,実施した指導は有効であったと考えてよいでしょう。または,最終的な目的は血圧を下げることですから,指導の前後で血圧を測定し,実際に血圧が下がっていれば,減塩指導は有効であったと考えてよいでしょう。

 同様に,ダイエットの効果を知りたければ,体重を測定し,以前よりも減っていればダイエットは成功したものと考えてよいでしょう。また,学生に講義を行ない,その講義が有効であったかは,講義内容に関連する知識量の増加が1つの目安になります。講義の効果を調べるには,同一の内容の試験を講義の前後に行ない,講義の前後での得点の増加を調べることで,その講義の評価が行なえるはずです。

連載 Words, words, words.─研究にまつわる知識と技法・words 18【最終回】

  • 文献概要を表示

 早いもので,とうとう最終回となってしまった。本当に,時間はあっという間に過ぎ去ってゆく。さて,お約束のとおり,前号に引き続き,研究の実施と論文の執筆にあたって注意しなければならない点を,できるだけ具体的にお話ししてみたい。ただし,前回とは少し趣向を変えてみようと思う。

 そこで,今回は,研究の構想を練り,問題と方法を明確にした上で調査や実験を実施し,その成果を論文にまとめるときにやってはいけないと思うこと,つまり,negative listを並べてみた。誌面の都合上,大切な項目のみに絞っている。

 これらの点は,自分の経験から,あるいは他の研究者や学生を見ていて感じていることで,親しい同僚と意見を交換したり,授業や個人指導の際に学生たちによく話し聞かせているものである。あくまでも私個人が考えていることであり,ご賛同してくださる方もいることとは思うが,逆に,偏った見方だと思われる方がいるかもしれないし,別の意見をおもちの方もいるかもしれない。その点をご理解いただいて,クリティカルにお読みいただければ幸いである。

--------------------

欧文目次

INFORMATION

今月の本

『看護研究』投稿規定

次号予告・編集後記

バックナンバー

看護研究 第47巻 総目次

基本情報

00228370.47.7.jpg
看護研究
47巻7号 (2014年12月)
電子版ISSN:1882-1405 印刷版ISSN:0022-8370 医学書院

文献閲覧数ランキング(
5月13日~5月19日
)