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I.はじめに
急激な生命の危機状態にあるあらゆる年代の人々に対して,場や疾患,病期を問わず専門的なケアを提供するクリティカルケア(山勢,2006;井上,2007)。その中心的役割を担うのが集中治療室(Intensive Care Unite;以下,ICU)である。ICUの看護師に求められる技,その一つが重篤で不安定な状態にある患者の変化をいち早く捉えるための専門的かつ高度な知識や技術,臨床判断能力である。これらの技は熟達すればするほど自動化され,一つ一つを気に留めながら実践することなどなくなってしまう。ショーン(Schön,1983/佐藤,秋田訳,2001)は実践に繰り返しという要素があることを前置きした上で,「日々の実践において有能な実践家は,適切な基準を言葉では述べることができない質の判断を無数に行ない,ルールや手順として述べることのできない技能を実演している」(p.77)と述べる。
しかし,言葉にできないほど熟達した技術は,時として看護師に不全感を感じさせてしまう(森田,2006;山口,江川,吉永,2013)。筆者自身もクリティカルケアで十数年勤務したが,経験を重ねていくにしたがって自らの実践,なかでも意識障害患者への実践が機械的に思われ,「一方通行」で「手ごたえ」が感じられなくなっていった。そして,それらは実践の繰り返しのうちに「かかわりの実感のなさ」として,静かに蓄積していった。実践家は同じタイプの状況に繰り返し出会うことで,「次第に驚かなく」なり,実践がより反復と決まりごとになるにつれて,自分がいましていることについて考える重要な機会を逃すと言われている(Schön,1983/佐藤,秋田訳,2001,p.104)。つまり経験を重ねることが,自らの実践の意味をはっきりとつかめないものにしてしまうのである。筆者自身も感じていた不全感や実感のなさは,経験を重ねることによって実践の意味を見失っていたといえるのではないだろうか。
そこで本稿では,ICUで繰り返し行なわれる「観察」という実践の場面から,熟達した看護師にとって日頃当たり前と思われている何気ない実践とそれに関する語りを手がかりに,看護師自身が「語ること」によって,自らの何気ない実践の意味に気づいていくプロセスを記述していく。
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