はじめに
ブリティンゲル・サーヴェマン
クラスヨーラン・サーレン
スウェーデンの大学において看護学が自律した研究分野としての地位を確立したのは,1980年に看護学研究者アストリッド・ノルベリがウメオ大学編集室註1教授に就任し,スウェーデンの看護学分野で初めての教授が誕生したときに遡る。ノルベリのもとでは70名余の看護師が博士号を修得し,20名の教授を輩出している。ノルベリらは「第一世代」と呼ばれ,こうした看護学研究者の働きにより,スウェーデンでは看護学が幅広い角度から発展することになった。発表された研究を概観すると,どのような領域に焦点がおかれ,展開してきたかを知ることができる。研究の焦点を列挙すると,さまざまな障害や疾病をもつ個人への着眼,希望・苦痛・悲嘆といった患者の実体験,親族や家族の重要性,コミュニケーション,看護にまつわる哲学的・倫理学的側面などがある。また,看護職者自身に焦点を当てた研究として,看護職者の労働条件・地位,職業ストレス,状況別の患者・家族との関係の分析,専門職教育,看護ケアにおけるリーダーシップなどがみられる。スウェーデンの看護学研究界には他の学問領域でもみられるように,一種の学派が存在し,どの大学で研究が展開されてきたかによって研究上の関心のもち方に特徴があり,研究手法もさまざまである。一例をあげれば,ウメオ大学ではノルウェーのトロムソ大学とともに解釈学的現象学の方法論が開発されている(Lindseth & Norberg, 2004)。
大学によっては,他の学問領域の知識を用いずに,独自に看護学を発展させることが重要だとされている一方,医学,公衆衛生学,心理学,社会学等の分野の知見を用いることに強みを見いだしてきた大学もある。双方の立場から取り組むことは,看護学の知識の展開にはよいことであろう。ここ30年の間,世界中で国際交流や共同研究を進めるほど,看護学は学問領域としての自律性を高いものにした。当初は主に米国,カナダ,英国から影響を受けていたが,今日では,国際的な共同研究活動はヨーロッパ,アジア,その他へ広がっている。この結果,多様な文化間の看護実践の興味深い国際比較が行なわれ,共通点,相違点ともに明らかにされている。
本稿の目的は,スウェーデンにおける看護学研究の概要を提示することである。ここでは,スウェーデンにおける看護学研究のすべてを網羅するつもりはない。スウェーデンでは看護学研究がウメオ大学から始まった歴史があり,筆者らがすべてウメオ大学出身であることから,ウメオ大学における研究展開例を示したいと考える。
ウメオ大学看護学部は,110名の教職員が在籍し,16名の教授陣(教授,准教授)と25名の博士号をもつ研究員が含まれる。さらに,22名の助手(博士課程大学院生)がいる。現在までに82編もの博士論文が本学部にて提出・受理されている。本学部からは年間約55編の学術論文が国際的な学術誌上で発表されており,また,スウェーデン語の研究報告や書籍も出版されている。ここではその中から,主に新しく博士号を修得した研究者による9つの研究課題を選んで,以下の第1節~第9節にて紹介することとする編集室註2。本学部における研究領域のすべてを網羅するものでないことを断っておきたい。
まず,高齢者ケアにおける暴力行動はスウェーデンにおいて25年間研究されており,高齢者虐待,看護職者への暴力行動,という2つの方向性がある。高齢者虐待は,主にサーヴェマン教授ら(Saveman, 1994 ; Sandvide, 2008 ; Erlingsson, 2007)によって研究されてきた。高齢者虐待は東京医科歯科大学大学院保健衛生学研究科の佐々木明子教授らと長い間にわたって共同研究してきた研究課題の1つである。スウェーデンの地域看護師と日本の保健師の,高齢者虐待の想定事例に対する対応に関して国際比較研究を行ない,論文発表を行なってきた。この研究の結果では,スウェーデンと日本の看護師・保健師の対応は,高齢者虐待の問題における幅広い人間性,高齢者虐待に対する地域の看護職者の対応のいずれにおいても,両国の地域の看護職者の反応は文化の違いにもかかわらず似通っていることが明らかにされた。この結果においては,文化の相違を越えて意義ある情報と創造的な刺激を看護師同士で共に分かち合える国際共同研究の強みが発揮された(Erlingsson, Ono, Sasaki, & Saveman, 2012)。高齢者ケアにおける暴力行動についての,もう1つの視点からの研究「看護師に対する暴力」を第1節で紹介する。
親密な人間関係(高齢者ケアの場面にいる家族あるいは看護職者)の中で発生する高齢者虐待を予防する1つの方法として,関係者間の人間関係に着眼することが考えられる。本学の研究課題は家族との健康増進支援対話に焦点をおき,さらに最近15年間には家族看護学が独自の領域として展開されてきた(Saveman, 2010)。家族看護学において進行中の研究課題の中から,その1つを第2節に示す。この研究課題は,65歳以下で脳卒中を患った家族をもつ家族員に対して健康増進支援対話という方法を用いた介入研究である。看護学分野においては介入研究への関心が非常に高まっており,本学では他の介入研究の例として,さまざまな健康・不健康状態の違いによるタッチング・マッサージの効果に焦点を当てた研究課題がある。便秘患者への腹部マッサージに関する研究は第3節に示されている。
高齢者ケアの領域では,地域における高齢者に対する予防訪問の効果について健康経済学的分析が行なわれている(第4節)。
精神科ケアと心理的な健康問題をもつ患者に関する問題に焦点を当てた研究はスウェーデンに多くみられる。ここではその中から2つの例をあげる。リングレンは,自傷行為者,家族,看護職者の経験に関する研究結果を発表している(第5節)。エナーションは主に精神科の入院治療の中で,一般的スタッフ・アプローチがどのように使用されて体験されているかを調査した(第6節)。
高齢者ケアや精神科ケア等の現場で看護職者が経験する労働負荷に関しては,重要な研究領域として強調しておきたい。例えば,高齢者ケアの実践において,実施すべきケアをさまざまな制約のために実施できないという職業的良心のストレスを職員が抱えやすく,バーンアウトとも関連することが示されている(第7節)。
最後に,最近発表された2編の博士論文を提示する。2編とも他の学問領域との分野を越えた共同研究の成果である。いずれも患者登録データ(スウェーデンの黒色腫患者登録,スウェーデン北部心筋梗塞患者登録)を使用し,トライアンギュレーションデザインによる実証を採用している。一方の研究では,悪性黒色腫の診断の遅滞の問題が示された(第8節)。他方の研究では,心筋梗塞発症者の病院到着所要時間と長期生存率に関するものである(第9節)。