はじめに
見落としを防ぐには,「画像を隈なくみる」ことに尽きる。見落としの最も多い理由は,ただ単にそこに目が行っていないからである。中心視野に入れない限り,目を向けてもみておらず,認識されない。認識されなければ,診断にはほど遠い。
最近ではCTやMRIで産生される画像枚数は飛躍的に増加している。見落とさないためには,せっかく撮像した画像はすべて目を通すことが望ましい。特に,撮像関心領域を絞る前の位置決め画像では,広い範囲の組織が描出されているため,診断の鍵となる所見が隠れていることがあり,気が抜けない(Fig.1)。
見落とさないための分析活動や論理的手順には,①演繹の順序,②構造の順序,③時間の順序,および④重要度の順序,の4種類がある。
①“演繹の順序”は大前提および小前提から結論を導くものであり,報告書作成や診断における説得のためのメタ論理とも言える。ただし,結果としての画像所見から原因である疾患を推定することは,論理形式から言うと後件肯定の誤謬(modus moron)を犯していることになる。つまり,ある疾患Pで特徴的な画像所見Qを呈する事実があるからといって,画像所見Qをみたら疾患Pと診断するのは形式上の誤りである([{P→Q}Q]ならばPである,という論理式は成り立たない)。かといって,科学的推論の多くはこの“後件肯定”形式とならざるを得ないし,普段の診断もこの論理展開で行っているはずなのだが,それが原理的に否定されるとはどういうことであろうか。実は,仮説演繹法の考えからは,“後件肯定”形式の推論の妥当性も担保されるのである。すなわち,画像所見Qが原因疾患Pでないと考えない限り描出されない所見である場合は,事実上「~P(=Pの否定)ならば~Q」が想定されるので,これの対偶である「QならばP」と前件肯定則「[{Q→P}Q]ならばPである」によって原因となる疾患Pが論理的に推論されるのである。この論証は,単独の診断ではなく何度も繰り返し同パターンの診断が行われることによって実行される(何度も繰り返し同形式の診断を繰り返すことによって信頼度が高まる)。
②“構造の順序”とは,全体を部分に分けるデカルト的分析方法であり,画像を機械的に4分割して,それぞれの区画に集中して読影したり,脊椎周囲,椎体,椎間板,後方成分,硬膜外,くも膜下腔や脊髄神経根などと組織ごとに読影する順番を決めて,漏れなく重ならず所見をとる工夫に相当する。
③“時間の順序”による記述は,時系列によって原因と結果をつなげる思考方法であり,治療後の経過観察など微分的な変化を検出するときに用いる。
④“重要度の順序”は,救急の現場での「3C(critical, common, curable)の順に考えよ」という教訓に相当する。つまり,診断を迫られる状況で,稀ながらも致死的な疾患から除外していく方法である。
疾患の画像所見を見落とさないためには,このように診断する状況や検査の目的に応じたアプローチを個別に採用する臨機応変さが望まれる。これは,構造構成主義(structural constructionism)で関心相関的選択1)として理論的に定式化された合理的な姿勢である。つまり,常に同じ一辺倒な方法で読影に臨むのが正しいわけではない。方法が手段である以上は,その妥当性は目的に応じて決まる。この意味では,たまたま画像の片隅に描出されていた偶発腫を見落としても,状況によってはその検査での目的や関心外のことであり“見落とし”とは呼べないかも知れない。例えば,脊髄ショックの画像検査で非機能性副腎腺腫を“見逃し”ても,それほど重大な失態ではないだろう。
さまざまな病因・病態や疾患(原因)が,画像所見や臨床症状などで同じような臨床的表現型(結果)を呈するため,過去の個人的経験や,ただの思いつきにとらわれて誤った診断をしてしまうことがある。このような鑑別漏れを防ぐには,ローレンス・ティアニーが提唱する「鑑別診断11カテゴリーを満遍なく考える」アプローチ(方法論)2)が有用である。具体的には,①血管性疾患,②感染症,③腫瘍性疾患,④自己免疫性疾患,⑤中毒,⑥代謝性疾患,⑦外傷,⑧変性疾患,⑨先天性疾患,⑩医原性疾患,および特発性疾患,のそれぞれに当てはまるかどうか順番に検討する診断法である。
別の方法として,筆者は下野太郎のアプローチ3)を改変して採用している。これは,病変の,①存在部位,②性状,③周囲の変化の所見をとり,④他部位や過去の画像を参照し,⑤当該施設特有のバイアス(疾患の偏りや各診療科の得意不得意)を加味して鑑別するという,極めてオーソドックスな方法論である。
一方,見落としではなく,読み過ぎを防ぐには,「難しい疾患から考えない」ことが重要である。特に,学会や研究会で稀少な疾患を学んだ翌日には,事前確率(=有病率や罹患率)を無視した突拍子もない結論に飛びつきがちになる。昨日勉強したばかりの疾患に,たまたま今日出会うような僥倖は,まずないと考えてよい。日常診療では,稀な疾患に遭遇するよりも,ありふれた疾患の稀な所見(バリエーション)をみることのほうが多いものである。「ひづめの音を聞いても,いきなりシマウマと思うな(まずは普通の馬だと考えろ)!」“You hear hoofbeats outside your window, the first thing you think of is a zebra!!”という格言で常に自戒したい。
また,“オッカムの剃刀”という視点も大切である。これは「必要以上に多くの事物を立てるべきではない」という考えであり,病態として一元的に説明がつくのであれば多元論をわざわざ持ち出さないのが理性的である。
ただし,期待効用理論4)からすれば,診断するときには合理性,すなわち数学的な事後確率(=所見が陽性な場合の陽性的中率)だけを根拠に判断しているのではない。診断が正しかったときや誤ったときの“効用”(=満足感,精神的価値や心理的評価)も影響する。例えば,有病率の高いありふれた疾患を診断するよりも,稀な疾患を診断するほうが価値は高いと考えるであろう。つまり,ある疾患に対する診断の基準は“合理性(事後確率)×効用”と表され,疾患ごとの“期待効用”を天秤にかけて診断しているのである。この式からは,稀な疾患に遭遇したと思ったときの高揚感が診断を誤らせることもよくわかる。さらには,プロスペクト理論5)をはじめとする行動経済学によると,読影する状況によっては“期待効用”が高い疾患を診断の上位に挙げる場合も,低いほうを選択することもある。例えば,稀な疾患をきちんと正診したときの周囲からの称賛や,ありふれた疾患を誤診したときの誹謗中傷も,読影中の頭を横切るであろう。結局,ある疾患に対する診断の基準は“事後確率×効用×感情”と表される。読み過ぎを防ぐ手立ては一筋縄ではいかないのである。