はじめに
私は,大学紛争さなかの昭和43年に医学部を卒業し,普通の脳神経外科医として臨床と研究に励んできたが,50歳に至った頃から,次のような疑問が私の心を占めるようになった.それは,一口で言えば,脳と心の関係,すなわち心脳問題である.脳手術において,意識と局所脳機能の保全は最優先の課題であるから,脳神経外科医がそれらについて,最低限の基礎医学的知識を有すべきことは言うまでもない.しかし脳神経外科学において,Japan Coma Scale(JCS)を中心とする神経診断学の主目的は,刺激に対する反応性の変化と脳病変との局所的対応を明らかにすることである.また,近年著しい発展を遂げている認知神経科学も,特定の心的現象と機能的画像診断法で示される脳の活性化部位との局所的相関(neural correlates of consciousness:NCC)を主たる課題とする20).そのようなアプローチの重要性に疑いの余地はないにしても,それが「心とは何か」「脳と心はいかなる関係を有するか」という大問題の解明に直接には結びつかないことも事実である.
意識の成立に脳幹上部の網様体賦活系(reticular activating system:RAS)が関与していることは既に確立されている3).また,近年の大脳生理学は,意識の内容である心は,局在する脳機能の全体的統合によって生まれることを示している7,21,24,35).そうでなければ,人格などというものは存在し得ないであろう.意識発生のメカニズムに関しては,グローバル・ワークスペース説6,7)やダイナミック・コア説などが学会の主流となっている13).これらにおいては,局在機能の統合(結合)の機序として,異なる皮質部位におけるニューロンの同期発射というメカニズムが想定されている.それは意識(気づき)の発生における,複数の脳局所領域における脳波活動コヒーレンス(協調)の増大,および局所脳代謝の同時的賦活などの知見によって間接的に支持されているが13),同期発射自体がいかなるメカニズムによって引き起こされるのかは不明のままである.また,同期発射に意識発生の原因を求める考え方は,次に述べるような原理的な問題を孕んでいる.
同期発射と意識を結びつける考えは,脳の働きのすべてが,神経回路網におけるパルス系列の処理と統合に依存するとするパラダイム,すなわち物理記号仮説を土台としている16).このパラダイムから,脳とコンピュータの働きが機能的に同一であるとする見解(機能主義と呼ばれる)が生まれた11,34).コンピュータ工学は過去数十年の間に飛躍的な進歩を遂げ,現在では,計算・記憶・推論能力などに関する限りは,ヒト脳をはるかに凌駕する人工知能(artificial intelligence:AI)が作成されている.そのことから,AIの普及がヒト脳を不要にする18),あるいは人類がその心を通じて築き上げてきた常識心理学(folk psychology)に基づく言語は,あまりに誤謬に満ちているから廃棄すべきである(消去的唯物論)11)などの主張がなされるようになった.それらの説の妥当性はさておき,世界中でAIが急速に普及していることは事実であり,それに伴って人類の思考・生活様式が大きく変化することは避け得ないであろう33).それと並行して,われわれの心に対する考え方自体も,より唯物論的あるいは数学至上主義的な見方42)へと変化していくと思われる.とすると,一時喧伝された「不確実性の時代」は過去のものであり,われわれは今や,人間の思考と行動がAIのアルゴリズムによって決定される「マトリックスの時代」,あるいは「ホモデウスの時代」18)へと突入しているのだろう.「それでいいのだ」と思う人もいるかもしれないが,私はそうは思わない.その理由を次に述べる.
私は,過去における脳虚血病態についての研究を通じて,脳体積の約半分を占めるグリア細胞がニューロンとシナプスの働きに大きな影響を与えること,また“tripartite synapse”と呼ばれるように,アストロサイトのフィロポディア(filopodia)と微小血管とシナプスが構造的および機能的な三位一体を成していることを学んだ2,4).シナプスの伝達効率や新生は,アストロサイト・フィロポディア(アストロサイト以外の多種類のグリア細胞も含む)と微小血管の働きに大きく依存しており,それは必ずしも電気的現象を介さない,化学的および力学的なプロセスである23).つまり,神経回路網における情報処理は,その外部に存在する化学的・力学的なシステムの働きに依存し,それらから多大な影響を受けている.脳の神経回路網をコンピュータと同じものと見なす物理記号仮説および機能主義は,37億年にわたる生命の進化によって創り出された脳構造の,途方もない複雑性の一面しか見ていないのである.
さらに,知覚・認知の本質にかかわる問題がある.感覚を引き起こすあらゆる外的刺激は感覚受容器においてスパイク系列へと変換されることによって「情報」へと変化するが,スパイク系列としての「情報」は何の「意味」ももたない.人間が知覚に付与する「意味」は,生物がその37億年の進化の歴史における個体と環境との相互作用を介して獲得してきたものに淵源するから,人間・動物の知覚から「意味」を分離することはできない.つまり,米国の哲学者であるトーマス・ネーゲルが,『コウモリであるとはどのようなことか』32)で述べているように,パルス系列から成る情報を,個体と環境の具体的な関係から切り離し,一般化・抽象化して考えることには「意味がない」のである.物理記号はどれほど複雑であろうともデジタルな記号列に過ぎず,その内に意味やクオリアを含むことはできない.したがって,物理記号仮説と計算論に依拠して脳とコンピュータを同一視する「機能主義」的な考えは,脳がその進化の歴史における無数の創発を通じて獲得した構造と機能を無視した一方的な見解にすぎないのである11,15,16,33,34,44).
マトゥラーナとヴァレーラは,1980年に出版された“Autopoiesis and Cognition:The Realization of the Living”28)において,生命体の神経システムにおいては,外部刺激と内部変化が直線的因果関係で結ばれているのではなく,神経システムは自己に準拠して自己を創り出していくという主張を展開し,その後の心脳問題の展開に大きな影響を与えた.シャノンの情報理論に基づく意識理論27)は,神経回路網におけるパルス処理についての分析を可能ならしめるとしても,その本質は結局のところ数学や論理学と同じトートロジー(同語反復)にすぎないから,人間が知覚を通じて構成していく「意味」とは無関係である15,16,39,42).「知る」ということは,ただ情報を受け取ることではなく,その「意味を知る」こと,および新たな意味を「発見すること」である15,28,39,44).宇宙における人間の独自性と尊厳性は,人間が外的刺激の「意味」を,意識を介して自ら構築していく,自律的かつ発展的な存在であることに依拠する.パスカルは,「人間は,知ることにおいて,何も知らない宇宙よりも尊い」と述べたが,皮肉なことにその言葉は,「意味」を欠いた「知」であるAIの進歩が「特異点」に達しようとしている現代において,新たな問題をわれわれに突きつけているのである.
そのような理由から私は,電気的・化学的・力学的システムの三者が統合された複雑系として脳を捉える見方に立脚した意識理論を探し求めてきた.そして遂に私は,米国の脳科学者であるフリーマンの“How Brains Make Up Their Minds”15)という著作に巡り合ったのである.彼は,神経回路網の働きについての従来の知見を取り入れつつも,20世紀半ばにイリヤ・プリゴジンが確立した散逸系(複雑系)理論38),およびヘルマン・ハーケンのシナジェティクス(synergetics)17)の基本的な考え方に立脚し,まったく新たな見地から,生きている動物脳を用いた実験的研究を開始した.上掲書は,彼の生涯をかけた研究成果を,一般読者を対象としてわかりやすく解説したものである.フリーマンが私からの頻回のメールに懇切丁寧に答えてくださったこと,また,日本における代表的なカオス理論研究者である津田一郎教授が訳文を監修してくださったことにより,私はその書の邦訳15)を完成することができた.現代日本においても,複雑系理論に基づく生物学的研究が既に開始されているが,脳科学領域においては,その重要性がようやく認められ始めたにすぎない22,40,41).したがって,本稿においてフリーマン理論の大要を紹介することには,今なお十分な意義が存すると思われる.
一方私は,この翻訳を進めている間に,フリーマン理論における物理学的言説と仏教心理学における心的言説との間に著しい類似性が存在することに気づいた.そのことから私は,両者の対応を明確にすることが,東洋思想と西洋思想,ひいては脳と心についての一元的理解を深めることに役立つのではないかと考えるようになった.フリーマン教授はそのような私の考えに強い興味を示され,本として出版するよう勧めてくださったので,私はその後,数年間をかけて『古代インド仏教と現代脳科学における心の発見』5)という一書を書き上げた.それは予想以上の反響を呼び,NHK Eテレの「こころの時代〜宗教・人生〜」という教養番組で取り上げられたほか,第77回 日本脳神経学会学術総会での文化講演に招聘されるという栄に浴した.講演の目的は,私と同じ脳神経外科医に脳と心の関係についての注意を喚起することにあったが,1時間程度の講演で私の考えを十分に伝えることはもとより無理であった.そこであらためて,『脳神経外科』に論文として発表する機会をいただき,寄稿としてまとめた.
本稿の目的は,現代意識理論とブッダの教説が本質的な共通点を有することを明らかにすることにある.全5回に分けて,第Ⅰ部では,フリーマン理論の大略について解説し,第Ⅱ部では,ブッダの教説を中心とする仏教心理学の要点を述べ,それとフリーマン理論との対応について述べる.フリーマン理論を補完するために,ジャーク・パンクセップの情動理論36,37)を適宜追加した.最後に,こうして明らかとなったフリーマン理論と仏教心理学との鏡像的対応が,現代においていかなる意義を有するのかという問題について論じることとする.