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はじめに
筆者は1990(平成2)年に現在の勤務校である東邦大学理学部に奉職してから今日に至るまで,一貫して中学校および高等学校の理数科系教員養成の仕事に従事してきた。本学教員養成課程で履修をしている学生たちは,教員免許状を取得するために,教職に関する専門科目31単位の他にも多数の単位の取得が必要とされている(上記の単位は中学校教諭一種免許状の取得に関わる数値)。このことからもわかるように,教員になるためには膨大な量の学習を長期間に渡って行うことが求められている。とりわけ学校教育の中核である授業づくり(設計,実施,評価のすべてのプロセスを含む)に関する諸々の学習,つまり授業の基本的な仕組みと働きの理解,教材の解釈や開発の仕方,学習者の実態調査の方法,学習指導案の作成などに関する学習には,相当の時間が必要になる。
中学や高校の教員を目指す者にとって,授業に関する最低限の学習をしてから教壇に立つというのは至極当たり前のことであり,これは教育界の常識である。では,大学の教員はどうであろうか。現状から言えば教育に関する基礎的な学習(知識や技術の習得)をしていなくても授業を担当している方が大多数を占める。大学教員のなかには某かの教員免許状をもっている方もおられるが,数としては少ない。もともと大学の教員は研究職という位置づけで採用されており,これまでは必ずしも教育に関する基礎的な学習をしていることを採用の必須条件とはされてこなかったという経緯がある。最近でこそ,愛媛大学のように新規に採用した教員に対して「教員力」向上を目指したFDを必修化して課し,その修了を終身雇用の条件とするという試みがなされるようになってきた。しかしこのような試みはまだ緒に就いたばかりである。したがって国公立・私立を問わず,多くの大学教員は,授業については素人同然の状態で教壇に立ち,自分流のやり方でなんとかその場をしのいでいるというのが実情であろう。
むろん,なかには教育に関する基礎的なトレーニングを受けていなくても,優れた授業を展開される先生方がおられることも事実ではあるが,それはやはり少数派に留まる。このことは看護系の短大や4年制大学に勤務する看護教員についても同様に当てはまる。
一方,筆者は1994(平成6)年以降から現在に至るまで,非常勤講師として看護教員養成機関で「教育方法」などの授業を担当してきた。そこでの経験で非常に驚いたことがある。それは,看護専門学校教員のなかに,教育に関する基礎的な学習を積んでいなくても専任教員として実際に教壇に立って教えている方がいるということであった。1回や2回のスポット的な授業を担当するならいざしらず,コンスタントに数多くの授業を受け持って教えているという実例があることを知り,言葉を失った。いくら保健師助産師看護師学校養成所指定規則などの基準をクリアしているとはいえ,倫理的・道義的になぜこのようなことが可能なのか,筆者自身はいまだによく理解できない。教育界の常識からは考えられないことだからである。当該者を責めるつもりはまったくないが,教育に関する最低限の基礎的なトレーニングを受けていなくても「豊かな看護の臨床経験さえあれば看護は(誰でも)教えられるものなのだ」という教育に対する極めて安易な考え方を,専門学校などの雇用者側がもっている(あるいは「いた」)ことが,そのような事態を許容する背景の1つとしてあるのではないだろうか。
もちろん,教員免許状をもった看護教員を雇用したくても,実際には応募してくれない,つまり看護学校の教員定数を満たすことができないから,という切実な事情もあるのだろう。しかし,今日のように教員の質の保証や向上が叫ばれる時代にあって,上記のような事態を看過していくことは,長い目で見ると看護業界の発展のためにもならないと筆者は考えるが,いかがであろうか。
さて,話の本筋が少しずれたので戻そう。教育,とりわけ授業に関する基礎的なトレーニングを受けないで,いきなり授業を担当せよといわれた看護教員たちは,一体どうやって授業をしているのであろうか。恐らく大変な不安とプレッシャーのなかで日々苦労しながら準備をされているはずである。あるときには自分自身の受けた看護学校などでの授業を必死で思い起こしながら,またあるときは己の勘や経験を頼りにして強引につくりあげたり,同僚の先生方にやり方を教わったりしながら,見よう見まねでやっておられるのではないだろうか。
その結果はどうだろう。多くの場合は,授業者としての手応えはあまり感じられないで,フラストレーションのみが溜まってしまっているのでないだろうか。しかし,一方では授業の内容や方法などにそれほどこだわらなければ,授業自体はなんとかつくれてしまうし,やれてしまうという側面もある。そのため,たとえ授業がうまくいかなくても,そのままやり過ごしてしまうことも実は可能なのである。もちろんそのようにして作ったものを「授業」と呼んでよいかどうかはまったく別の問題なのだが……。
しかし,授業に関する基礎を学ばず,我流で通すようなやり方を続けていて,本当によいのだろうか? 教育や授業の基礎・基本を学ぶことに意味はないのだろうか? 次節ではそのことを考えてみよう。
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