生体の科学 63巻4号 (2012年8月)

特集 質感脳情報学への展望

特集によせて 小松 英彦
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 われわれは視覚や聴覚や触覚の感覚刺激入力をもとに,物体の素材や状態をやすやすと認知することができる。例えば見ただけで物体が金属でできているとかガラスでできているとかゴムでできている,といったことがわかる。また,野菜が新鮮であるか少し古くなっているか,といったことがわかる。地面が乾いているか濡れているかがわかる。このように感覚情報をもとにして物の素材や表面の状態を推定する機能が質感認知である。また,見ただけで触った感じがわかるというように,質感認知においては感覚種を超えて事物を統一的に認識する働きが顕著にみられる。質感認知のもう一つの重要な側面は,嗜好や情動と密接にかかわっていることである。例えば野菜や肉の鮮度を判断したり,肌の状態から健康状態や年齢を読み取る。また,陶磁器の柔らかい光沢やガラス細工のきらめきは人を吸い寄せる。素材や表面の状態の認知はそれだけにとどまらず快や不快の情動を生み出し,事物の価値判断や意思決定にまで影響する。このような嗜好や情動,価値判断と関係する部分を感性的質感認知と呼び,価値判断と中立な意味での質感認知と区別する。

視覚における質感知覚 西田 眞也
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 視覚研究の歴史は長い。しかし,質感の研究が盛り上がってきたのはごく最近のことである。単純化された刺激の知覚の分析を得意とする視覚科学にとって,質感は複雑すぎる現象だった。しかし,この複雑な現象に挑戦しなければ,現実世界における視覚は理解できない。近年,この問題に挑戦するための理論と研究手段も揃ってきた。本論ではこのような研究背景を述べたあと,視覚的質感知覚にかかわる人間研究を具体的に紹介する。質感を決定する基本的な物理特性は表面の光の反射特性である。照明や表面形状が反射特性の知覚にどのように影響するのかを中心に説明しながら,人間の視覚系がいかに質感の推定を行っているかを考察する。

触覚によるテクスチャ知覚 吉岡 隆
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 われわれの外部世界の知覚は感覚受容器から始まり,画像,音,物体表面や形状などの情報は感覚シグナルに変換されて,最終的に脳に伝えられる。体性感覚の触覚システムでは,物体のテクスチャ・形状の情報は,手の機械受容器や筋肉,腱,靭帯の固有感覚受容器によって最初に処理される。この総説では,触覚テクスチャの知覚に着目し,粗さなどのテクスチャ次元のベースにある神経メカニズムについて論じる。まず,それぞれの種類の機械受容器がどのように表面や物体の別々の側面を処理しているかについて述べる。その後,末梢から中枢神経系にテクスチャの情報を伝える神経経路について探る。

 これまで研究されてきた多くの表面質感のなかでも,粗さは最もよく取り上げられるテクスチャ質感の一つである1-6)。本総説では粗さ,すなわち粗い―滑らかの軸だけでなく他のテクスチャ次元,例えば柔らかい―硬い,すべりやすい―ねばねばした,などテクスチャ知覚の多次元的な側面についても述べる7,8)。また,神経系が環境の変化に依存せず粗さ知覚の恒常性を維持する仕組みについても論じる。最近の研究により,手の動きからの固有感覚入力により修飾されることで粗さの恒常性を維持していることが示されている9)

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 本稿では,これまでの多くの教科書に掲載されてきた解説とは異なった形で,初期視覚野の機能について述べる。最近の理解と考え方は初期視覚野の研究に携わる者にとってはかなり長い間の標準であるにもかかわらず,多くの神経科学研究者一般には最新の情報が行き届いていないように見受けられる。かつては,V1細胞は線やエッジ(明暗の境界)が受容野に入ると反応する「線の検出器」や「エッジ検出器」として機能しているのではないかと多くの研究者が考えていた。V1細胞が反応する線やエッジなどの刺激の形をそのまま役割としただけであろう。しかし現在では,この考えは厳密には正しくなかったとされている。最近の理解では,V1細胞の集団は網膜に投影された画像情報をできるだけ損なわない形で保ち,かつ同時に高次の視覚野での処理に適した形に変換しているとする考え方が一般的に受け入れられている。この理解を踏まえて,質感,特にテクスチャーの処理に関する神経機構と特徴抽出メカニズムに関して,最近の当研究室における成果を中心に解説する。

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 質感認知は感覚情報をもとに物の素材や表面の状態についての知識を得る生体の働きである。ヒトや他の動物が環境に適応して生存するために非常に重要な機能であるにもかかわらず,質感認知の神経機構の研究はこれまであまり行われてこなかった。一方,質感認知と深いかかわりを持つと考えられる物体認識の神経機構については多くの研究の蓄積があり,モデル化もなされている。そこで,視覚における物体認識の神経機構についての理解の現状を簡単にまとめ,質感認知の仕組みを理解するためにはそこからはみ出したどのような新しい枠組みが必要なのか,どの程度研究が進んでいるのか,そして今後どのような方向の研究が求められているかを,視覚の質感認知に関して高次視覚野での処理を中心に述べることにする。

感性的質感認知の脳内機構 本田 学
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 脳に入力される感覚情報は視覚・聴覚といったモダリティごとに固有の分析的情報処理が行われる一方,全感覚モダリティの情報が感性・情動神経系(または報酬系)で統合され,快・不快や美醜などその動物にとっての価値判断が行われる。感覚情報の質感認知は美しさ・快さといった感性・情動反応の形成に大きな影響を及ぼすと同時に,逆に感性・情動系の総合的な反応,すなわち感覚情報を受容する主体の快・不快といった情動状態が各感覚モダリティの質感認知を修飾することは,日常的によく経験される現象である。このように,様々な感覚モダリティの質感情報がもたらす快・不快や美醜などの感性・情動反応を「感性的質感認知」と呼ぶ。

 質感認知と感性・情動との密接な関係にもかかわらず,現在活発に始められつつある質感認知研究の多くは,各感覚モダリティに固有の情報処理を対象としており,質感認知に対する感性・情動神経系からのアプローチは必ずしも十分とはいえない。その原因の一つとして,個別性が大きい情動・感性反応を普遍的な現象として捉えることの難しさが挙げられる。また,それに関連して,感性的質感認知の基盤となるヒトの脳機能を客観的に捉える手法が大きな限界を持っていることも無視できない。例えば,現在,ヒトの脳活動を非侵襲的に調べるうえで有力なツールとして広く使われている磁気共鳴機能画像法(fMRI)は,ジェット機並みの140dB相当の騒音を発生する。このように,脳機能イメージングのストレスフルな計測環境や手技自体が,快・不快や美醜を伴う脳の繊細な感性的質感反応を捉えるうえで大きな問題となり得る。

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 外界認知,すなわち物体の形状,色,動きや場所など,「何がどこにあるか」を知ることが視覚の目的の一つである。これまでに心理物理学や神経科学によって明らかにされてきた視覚メカニズムの一部は,例えばロボットビジョンや画像計測など視覚情報処理技術として応用されており,こうした技術によって自動車などの組立てラインはかなりの部分が自動化されている。一方,これとは対照的に工業製品や工芸品の検査工程は,いまだその多くが人手(目視)により行われているのが現状である。目視工程の自動化は産業界の最大の要望の一つだが,特に素材感の再現,光沢感や透明感の定量など質感にかかわる検査に関しては熟練者が重要な役割を担っている場合が多い。しかしながら,熟練者が何をどのように判断しているかについては不明な点が多い。このことは,検査工程の自動化という産業応用上の課題としてのみならず,質感知覚の学習効果や環境依存性など,質感脳情報学の観点からも非常に重要な問題である。本稿では,熟練者の質感認知を手がかりとして,質感の学習依存性を明らかにするために,現在筆者が進めている真珠質感に関する研究を概説する。

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 質感は五感による外界からの入力が脳により情報処理され脳内に形成される,ある種の感覚であると考えられる。そうすると,五感による知覚より前の段階,つまり光や力といった感覚器官が捉える物理量やそのパターン,または対象物体そのものにも質感と呼べるもの,つまり質感に寄与する成分が含まれていることになる。これをなるたけ余すことなく計測・記録し,さらに提示デバイスにより再現することができれば,豊かな質感を有する美術工芸品や考古遺物のデジタルアーカイブ,工業製品の製造品質管理から娯楽分野まで様々な分野に寄与することができる。そこで本稿では,質感を記録・再現することをテーマとし,特に視覚による質感を題材に,質感を構成する物理的な要素に関して概説する。

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 コンピュータグラフィックス(CG)の研究分野では,視覚的に現実感の高い画像生成の実現に向け,これまでに様々な描画アルゴリズムやハードウェアなどが開発されてきた。さらには,物体の持つ微妙な質感が表現できる反射モデル式も提案され,複雑な反射特性や形状を持つ物体であっても,反射モデル式に基づき高速に描画するといったことが可能となってきている。

 レンダリング技術の急速な発展の一方で,写実的な画像生成を求めて実物体の持つ複雑な質感などを追求すればするほど,その物体の形状モデルや反射パラメタを手作業などで設定するのが難しいということが問題となってきている。画像生成に用いる物体のモデルをどのようにして設定すればよいかという問題に対して,実際の物体の形状や反射特性をカメラやレンジファインダといった三次元センサを用いて観察することにより,その物体に関するモデル獲得するというアプローチが注目されるようになってきた。本稿では,光源環境の変動に伴う物体の見えの変化を実物体の観察からいかにモデル化するかということを考えていく。

連載講座 老化を考える・12

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 2005年を基準にすると,30年後の2035年には認知症者数はほぼ2.2倍の450万人に増加する1)。高血圧などの疾患に比べれば10分の1以下であるが,自ら医療機関を訪れることが極めて少ないという疾患の特徴を考えれば,その深刻さは明らかであろう。この点に認知症医療とケアの現状が端的に示されている。介護保険導入後の10年を踏まえ,以下具体的に現状と課題を示すが,認知症医療とケアを考えるうえで押さえておかなければならない点が上記の点以外に二つある。一つは高齢者世帯のなかで高齢者夫婦のみ,あるいは高齢者単独の世帯が増加する点である。認知症の場合,先に述べた特徴のために早期発見が困難になる可能性がある。二点目は首都圏をはじめとして都市部で高齢化が急速に進む点である。認知症地域ケアについても,少なくない数の取組みが試みられているが,多くはいわゆる郡部での試みであり,都市部を念頭においたモデルや仕掛けが今後考えられなければならない。図1は現在,厚生労働省が進めている認知症者の地域支援体制のイメージを示しているが,地域と医療と介護の足並みをどのように進めていくことができるかということになる。

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 ヒトの脳の機能のなかで最も重要な部分が大脳皮質に宿っていると考えられている。大脳皮質がヒトで最も発達しているという事実と,臨床的に大脳皮質のいろいろな部位が障害されると部位に応じた様々な神経・精神症状が生じる事実から,ほとんどの脳科学研究者は大脳皮質の重要性を否定しないであろう。さて,この大脳皮質は認知・感情・記憶・学習・意識などいまだに神秘的にさえ見えてしまう機能を実現している器官であるが,これらの機能を実現するために働いているはずの「原理」は全く未知のまま,21世紀初頭においてもいまだにわれわれの挑戦を待っている。

 大脳皮質の機能とその作動原理を明らかにするために,いろいろな方法・手段が考えられるが,われわれは大脳皮質のデザイン・構成を知ることが原理発見に必須であると考えた。実例としては,1970年頃という古い話になるが,小脳皮質の作動原理の「発見」の例がある1,2)。小脳皮質は従来のゴルジ染色法を基本とした所見から大まかなネットワークデザインは解明されていたが,そのネットワークデザインを「教師付き学習」をするフォードフォワード情報処理マシーナリではないかと見抜く研究者が出現して以後,小脳皮質の作動原理の解明が大きく進むことになった。このような事例から,われわれは大脳皮質でも同じようにネットワークデザインを明らかにすることが大脳皮質の作動原理の解明に重要であると考えたわけである。

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 ポリグルタミン病とは,原因遺伝子のエクソン配列内に存在するCAGリピートが異常に伸長することによって引き起こされる神経変性疾患の一つのグループである。このポリグルタン病は遺伝性疾患であり,これまでに原因遺伝子としてAtaxin1,2,3,7,CACNA1A,TBP,Huntingtin,Androgen receptor,Atrophin1が知られている(表)。異常に伸長したCAGリピートが翻訳され,その伸長ポリグルタミン鎖を含む蛋白質の発現が発症の原因であると考えられているが,最近ではRNAレベルでの毒性も示されている1,2)。加えて,non-ATGからの翻訳開始による別のポリアミンによる毒性も示唆されている3)。一般に,家系で世代が下がりCAGリピート数が長くなるほど発症は早まるといった相関関係(anticipation)が知られており,これは病理変化の重篤度とも対応する。障害の起こる脳部位は各疾患で異なり,ハンチントン病では主に線条体の中型有棘神経細胞ならびに大脳皮質の神経細胞が脱落し,不随意運動や認知機能障害を示す。脊髄小脳変性症1型では主に小脳プルキンエ細胞や脊髄の運動神経細胞が脱落し,小脳失調や筋萎縮・筋力低下を示す。いずれの場合においてもその症状は40歳ごろから発症し,その後10-20年といった期間で緩やかな進行を示す場合が多い。

 ポリグルタミン病遺伝子変異によって生じる病態メカニズム解明は,多くの神経変性疾患の病態メカニズムを理解するうえでも非常に重要なことであり,これまで転写障害,プロテアソーム阻害,シャペロン機能異常,ミトコンドリア障害,軸索輸送障害など様々な細胞機能異常が報告されている4,5)

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次号予告/財団だより

あとがき 岡本 仁
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 目指すべき「質感」とは何かを知り,それを作品に再現することが,古来名工といわれる人々の目指すところであったに違いない。インターネットで「上質感」というキーワードに検索すると,製品の上質感を言葉で訴えるのに,どれだけ企業が努力しているかがよくわかる。曰く,「丸みをおびたやさしいフォルム,さらりとしたここちよい感触のスムーステクスチャーが特長の上質なデザイン。さらに,ガラスのような新しい質感のクリアタッチパッド(パソコン/ソニー・バイオ)」「背面カバーのテクスチャーデザインを始め,センサーキーを採用した滑らかなタッチパネルなど,細部まで吟味された使い心地への追求が,これまでにはない上質感を醸し出します(携帯電話/シャープ・アクオスフォン)」「唇に集めた光をしっかり反射,上質感あふれるダイヤモンドのような“キラキラ唇”を演出します(口紅/メイベリン)」。初代柿右衛門の昔から「上質感」とは何かを究めるために,匠たちは営々と努力を払ってきた。これまでこのような行為では,経験によって研ぎ澄まされた感性のみが探索の道しるべとなると信じられてきた。したがって,質感も感性もいわば“わかる人にしかわからない”領域のものとして取り扱われてきた。

 本特集では,新学術領域研究で質感の理解に取り組んでおられる,小松英彦先生をはじめとする8名の先生方に,質感の脳科学的,工学的理解がどのように統合されつつあるかを展望していただいた。やがて研究が発展し,筆者のように無粋な,“わからない人”でも質感を語れる時代が来ることを期待しています。さらに,3名の方々に連載講座,実験講座,解説をご執筆いただきました。重ねて厚く御礼申し上げます。

基本情報

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生体の科学
63巻4号 (2012年8月)
電子版ISSN:1883-5503 印刷版ISSN:0370-9531 金原一郎記念医学医療振興財団

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