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はじめに
外出しようとして一瞬,ふと立ち止まる.何か忘れているような気がする.年齢に関係なく,誰しも一度や二度は経験しているはずである.何かを忘れている,あるいは何かが失われているという感覚は,人を不安にさせる.特別なことがあったというわけではないのだが,えもいわれぬ物憂い感じに陥っている自分に気づく.しかし,悲しいのか,寂しいのか,侘びしいのかうまく言葉で言い表わすことができない.これもまた人間に共通する体験である.陰性感情を言い表わすこういった言葉は,どんな場面で,どんな情動の動きに対して区別されて使われていくのだろうか.不思議なことに認知症の人々とともに時間を過ごしてみると,自分の日々の生活の何気ない場面が気になってしまうものである.特に言葉が消えようとしている認知症の人々とのかかわりは,自分自身に生じる些細なことを意識に上らせ,「この感覚って何?」という疑問へと誘導していく.言葉でうまく言い表わせない多くの現象に人は日々遭遇している.それは,いろいろなことを体験したり,他の人々とかかわることによって,自分自身の身体の底のほうで発火しはじめているかすかな何かであるのだが,その正体はなかなか意識に上ってこない.だから,そのかすかな何かであるうちは,それに言葉を当てることはできない.発火し始めた何かが猛然と火を噴いたとき,人ははじめてそれが怒りや興奮という言葉を与えられている感情であることを知るのである.なぜなのか.答えは単純であった.「人間の身体の奥深くに刻み込まれている原初的な感覚や情動は,言葉を凌ぐ」からであり,「言葉を凌ぐものが原初的な身体であるから,言葉が消えても人間はお互いにかかわることができる」という自明のことであった.
本シンポジウムでは,まず,言葉が消えようとしている認知症の人々が,どうやって他者と出会い,お互いにかかわりあっているのかをお話させていただく.登場していただくのは,言葉が消えかかっているA子さんとB夫さんである.A子さんは,C太郎さんに執拗にさわる.C太郎さんが乗っている車椅子がお気に入りだからである.顔までさわられると,さしものC太郎さんも一喝することになる.怒鳴られたA子さんは,驚いて引き下がり,デイルームを放浪する.デイルームの真ん中に座り込んでそのA子さんを目で追っているのがB夫さんである.2人は互いに手をとって涙を流す.両者は言葉が消えてもかかわっているのである.私は,彼らの関係にピュアなつながりを,そして彼らの相互作用の中にケアのありようを見たように思う.こういった場面を通して,彼らのかかわりが成立していることの理由を,「人間の身体」を手がかりに考えていきたい.認知症ケアにもたらすささやかな可能性へと繋がると思うからである.
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