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前回までの振り返り
これまで2回にわたり,ベナー/ルーベルの『現象学的人間論と看護』*1で提示されている現象学的人間観の第1の視点,「身体化した知性」について解説してきました。ベナーらは,心と身体とを分断し,心だけが知性を持ち,身体は心の指令を受けて動く単なる機械だと考える「デカルト的人間観」を強く批判して,身体もまた知的な働きを行っており,人間は「身体化した知性」を具えた存在だと主張していました。「身体化した知性」には,赤ん坊が生まれたときから具えている,反応したり学習したりする「生得的複合体」としての身体的能力や,誕生後に文化的・社会的に習得され身につけられる「習慣的身体」の能力─姿勢や身振りなどの身体的習慣や日常的な道具使用,専門的な熟練技能における習慣的な身体的能力─が含まれています,こうした「身体化した知性」の能力は,うまく働いているときには,取り立てて意識されないという特徴をもっており,だからこそ,これまで注目されず,研究対象にもなってきませんでした。
けれども,ベナーらによれば,私たちの日常生活の多くは「身体化した知性」のおかげで円滑に営まれており,また看護のスキルの多くも「身体化した知性」によって支えられています。とすれば,ふだん取り立てて振り返ることなく円滑に営まれている私たちの日常生活が実はどのようなものであるのか,また看護実践におけるさまざまなスキルがどのように習得され身体化されるのかを考えるうえで,「身体化した知性」という視点は大切ですし,またとりわけ,人が疾患に罹ると「身体化した知性」が損なわれ,円滑な日常生活が破綻し,それが「病い」の経験につながるのですから,患者さんが疾患によってどのような「病い」を経験しているのかを理解するうえでも,その患者さんの「身体化した知性」がどのような状態であるのかを見つめる視点が大切になるのでした。
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