連載 看護に恋した哲学者と読む ベナーがわかる! 腑に落ちる!・3
現象学的人間観(1)─身体化した知性(つづき)
榊原 哲也
1
1東京大学大学院人文社会系研究科
pp.588-593
発行日 2018年7月25日
Published Date 2018/7/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663201030
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前回の振り返り
前回は,ベナーらの「現象学的人間観」の5つの視点のうち,第1の視点である「身体化した知性」について,半ばまで解説しました。ベナーらは,心と身体を分断し,心だけが知性をもっており,身体のほうは心によって指令を受けて動く単なる機械だと考える「デカルト的人間観」を批判して,身体もまた「知の担い手」であり,「身体化した知性」を具えていると主張しているのでした。「身体化した知性」は,うまく働いているときには,取り立てて意識されないので,これまで注目されず,研究対象にもなってきませんでした。しかし,私たちの日常生活の多くは「身体化した知性」のおかげで円滑に営まれており,また看護におけるスキルの多くも「身体化した知性」によって支えられているのでした。それゆえ,人が疾患にかかり「身体化した知性」が損なわれたときに経験される「病い」の意味を考えたり,看護におけるスキルがどのようにして習得され身体化するのかを考えたりするうえでも,「身体化した知性」という視点は重要なのです。
ベナーらは,この「身体化した知性」の能力について,『現象学的人間論と看護』第3章で,メルロ=ポンティに関するドレイファスの講義にもとづいて,5つの次元で説明しています(PC 70ff./79ff.)*1。ここでは,なかでも重要と思われる「生得的複合体」と「熟練技能を具えた習慣的身体」の2つについて,他の章も参照しながら解説していきます。
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