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バブル世代に属する私は,学生時代をともにした70年代後半〜80年代の音楽には今も励まされ癒やされ,自分の血肉となっている感があります.なかでも電子楽器とコンピューターを駆使したイエロー・マジック・オーケストラ(以下,YMO)の登場は衝撃的かつ圧倒的で,音楽を趣味としている訳ではなかった中学生の私も引き付けられました.当時,“テクノロジーが彼らを覚醒させた”という評論がありましたが,今から思えばむしろ逆です.フォーク,ロック,クラッシックのそれぞれにルーツをもつ細野晴臣,高橋幸宏,坂本龍一の三氏によってすでに洗練されてきた音の世界にテクノロジーが解き放されたということだと思います.昨年は高橋さんと坂本さんが続けて旅立たれ寂しい限りですが,彼らの作品やパフォーマンスはいつまでも音楽文化の血肉となって生き続けるでしょう.
プロデューサーとしてYMOを世に送り出したのは,自身も作曲家として“翼をください”をはじめ数々の名曲を生み出した村井邦彦さんです.昨年出版された著書「モンパルナス1934」はお薦めの1冊です.文化人のサロンとして知られるイタリアンの老舗“キャンティ”の創業者・川添浩史は,1934年に21歳の若さでパリに渡り,モンパルナス地区を拠点に国際感覚を身に付け,帰国後は日本の文化を世界に発信することに心血を注ぎました.その一環として,第一線の文化人と駆け出しの文化人,そして文化の未来を担う無名の若者たちの交流の場として開店したのがキャンティです.同店で川添から薫陶を直接受けた村井さんが多くの資料と証言に基づいて,川添の人間形成にかかわった数多くの芸術家との交流をはじめ,さまざまな史実を小説化した作品です.帯書で細野さんは“この出会いなくして,YMOの成功はなかった.キャンティは日本のカルチャーの核心だった”とコメントしています.ありがちな感傷的な懐古に陥ることなく,読者の分析的視点にも応えられるような過去の事物の収集・保存,つまりアーカイブとして成立させるために,単なるノンフィクションの回顧録の形式を取らずに,あえて創作を施して小説の体裁を取った点が興味深いです.最近出版された自伝やメディアでの発言からも,日本の音楽の“アーカイブ”にかける村井さんの静かな情熱が感じられます.
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