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あとがき
塩原 哲夫
pp.1098
発行日 2014年12月1日
Published Date 2014/12/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1412200068
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評論家という人種が,お茶の間に頻繁に現れるようになったのはいつの頃だっただろうか.彼らの言い分だけを聞いていると,彼らに批判される側の人々(指導者)は馬鹿ばかりということになる.子供時代の筆者にとって,何でこんなに物のわかった人々が指導者にならないのかが不思議であった.そう思う人が多かったせいか,評論家たちは選挙に出て当選し,指導者層の末席をけがすようになった.しかし,彼らの多くは,まわりを切りまくった評論家時代の冴え(?)を失い,失望を残してわれわれの目の前から消えた.
仕事をし続けていれば,何らかの責任ある地位につくのは必然である.そうなれば,軽々しい一方的な批判はできなくなる.部下のことを思う一方で,その組織全体のことも考えねばならず,時に非情な決断もしなければならなくなるからである.それは責任があるからこそ味わう,逃げ場のない深い悲しみなのである.指導者の本質とは,このような言葉にできない多くの思いを背負いながら,責任を果たしていくことにある.
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