巻頭言
医師を志して
葭山 稔
1
1大阪市立大学大学院医学研究科循環器病態内科学
pp.115
発行日 2012年2月15日
Published Date 2012/2/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1404101889
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私は大阪市生野区の生まれで,親父は紙箱を作っている町工場の親父でした.親父の実家は,戦前は大きな庄屋さんでした.北浜の西側には,淀屋さんが作った淀屋橋があり,東側には私の祖先である呉服屋の葭屋が作った葭屋橋があります.葭屋橋は,葭山の祖先が江戸時代に作った橋だとおふくろから聞かされました.親父はそのことについては何も言わなかったですが.親父の兄たちは,戦前に神戸商大や京大経済学部を卒業しましたが,戦後の農地改革で全てをなくし,親父は戦後の大学進学でしたから,そのような道を進めず,町工場を始めました.親父は,私には商売のような難しいことはできないから,医師になって生きていくように言っていました.
小学校低学年は勉強もあまりできなくて,通信簿も3が多い私でしたが,幸い体育だけは5でした.これは自信になりました.勉強ができなくても運動ができると.何か一つ得意を持っていることは大事なことです.そのような私でしたが小学校2年の時に親父に「世のため,人のためになりたい」と言ったら,親父にはすごく怒られました.「かみさん,子供がごみ箱をあさるような生活させて何が人のためか」と.親父からこのように言われてびっくりです.私が小さいころは親父の商売も大変でしたが,小学校の上級生や中学校時代は商売も安定して,PTA会長をしていました.そして,私を監視していました.学校の先生も私には特別スパルタで,いつも怒られ,立たされていました.親父はそのことをたいそう喜んでいました.
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