I.はじめに
精神薬理学という学問は1950年代の初期よりスタートした新しい科学の一分野であるともいえる。1952年にJ. DelayとP. Denikerがchlorpromazineを初めて精神科領域において使用し,特異な向精神作用を見出したことが発端となり,以後薬理学者および精神科を中心とした臨床家の間で,様々な化学物質が精神機能にいろいろ異なった影響を及ぼす現象を観察する経験の集積によって発達を遂げてきたもので,殊に治療面への貢献は目ざましいものであった。当初ゴールド・ラッシュの如く開発された多数の向精神薬と,これに関する夥しい数の臨床報告は精神疾患のあらゆる状態を征服することが可能であるかの幻想を与えたこともあったが,20数年を経た今日,従来の向精神薬療法の成果には限界がみえてきた感がないでもない。これを解決する意図もあってか,この領域の研究の内容も,この数年来薬物の向精神作用の作用機序から,対象とする疾患の発症メカニズムの追究に及ぶ広い範囲にわたるようになりつつある。精神薬理に関する研究を討論する国際的な集会はいくつかあるが,その中で最も長い歴史を持つCollegium Internationale Neuro-Psychopharmacologicum(国際神経精神薬理会議,略称C. I. N. P.)は1958年来,隔年に集会が持たれており,1978年第11回の会議をWienで開催しているが,Hollisterは第9回までのC. I. N. P. の目立ったトピックスの変遷を次のごとく列挙している1)。
1958年。phenothiaziner tricyclic antidepressants,MAO阻害薬,meprobamateの臨床応用。
1960年。正常者における各種薬物の行動および脳波上の作用。"治療"手段としての幻覚惹起薬(Hallucinogens)。
1962年。新薬―lithium,butyrophenones,benzodiazepines,deanol,薬物の作用に影響を及ぼす社会的心理的要因。
1964年。chlorpromazineの代謝,遅発性ジスキネジア。
1966年。薬物の効果の生物学的標識,副作用。
1968年。薬物の血中濃度。
1970年。lithiumの薬物動態学,antiandrogens,併用と相互作用。
1972年。三環系抗うつ薬の薬物動態学,遅発性ジスキネジア。
1974年。薬物動態学(pharmacokinetics),オピエートレセプターとペプタイド"ホルモン"の作用。
さらに1976年のQuebecにおける第10回C. I. N. P. におけるPlenary sessions,symposium,round tables,およびworkshopなどでみられたトピックスとしては,
向精神薬と神経内分泌学
synaptic receptorと向精神薬
neurotransmittersと神経・精神薬理学における役割
5-HTPの抗うつ作用
向精神薬の代謝と薬物動態学
minor tranquilizersの作用機序についての新しい研究のすう勢
向精神薬と薬物相互作用
therapy resistant patientsをめぐる問題
薬効評価の方法論
薬物依存
精神薬理学における国際標準化の問題
精神薬理学における定量的脳波の応用
遺伝薬理学
老年精神薬理学
その他があげられる。そして1978年夏Wienで開催された第11回C. I. N. P. においては13のsymposium,16のworkshop,14のround table discussions,その他多くの一般演題と展示発表がなされたが,その中で主要なテーマを拾い上げてみると,
躁うつ病の生物学的研究
benzodiazepinesの治療効果の生物学的ならびに臨床的基盤
薬物効果の生物学的・薬理学的予測因子
neuropeptidesと精神医学
indol amineとcatecholamine precursorsの行動に及ぼす効果
薬物依存
精神測定法,精神症伏評価尺度の精神薬理における進歩
向精神薬の血中濃度の問題
向精神薬の臨床試験のためのガイドラインと法的規制の問題
線状体のpsychobiology
精神薬理学における国際協力の諸問題
向精神薬の分類の問題
新薬に関するもの(抗精神病薬,抗不安薬,抗うつ薬,精神刺激薬,その他)
等々があげられる。このように最近における精神薬理学の研究は多岐にわたり,この領域の初期における高度成長時代に多くみられたような化合物の動物およびヒトにおける行動面ないしは精神面に及ぼす影響,とくに精神疾患の各種症状の治療への試みといった方面から,広く疾患の発症メカニズム,薬物の作用機序,個体側の感受性よりみた治療効果の予測,治療方法の科学的検討,副作用,倫理問題にまで広範囲に及んできている。これらのすべてをまとめて解説することはなかなか困難な作業であるので,今回は"精神薬理学に関する最近の諸研究"のトピックスのごく一部を紹介してそれぞれの概略を述べることにする。