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Ⅰ 「外から」何とかすること
今回の特集は「専門知の祝福と呪い」についてとのことで,「日々の臨床で実践している人間的工夫や技術」を書くようにと仰せつかった。
確かに自分は今,面接をしている空間が,なるべく余計なものに邪魔されないように,雑味のないものになるようには努めている気がする。けれどもそれは「人間的工夫」というのとはちょっと違う。何が違うのかを考えていて,次のようなことに思いあたった。
今回の特集テーマは,「専門知が『呪い』になり,それを迂回するものとして『人間的工夫』がある」というロジックになっているのではないだろうか。その背後にはおそらく,「面接の設定にまつわるもろもろの取り決めは,言うなれば上から押しつけられた窮屈な約束事で,それが『人間的』な温かい交流を阻んでいる」という感覚がある。だからそれをあえて外れることによって,何か人間的な,真に価値あるものが得られるはずだという話になる。
けれども自分の場合,面接の設定というのはありがたいものだという感覚が強かった。押しつけられたものとしての感覚は,初めからなかった。多分それは,ちゃんとした治療構造の中での面接を初めから教育される心理士さんたちとは違い,自分がもともと(というより今もだが)精神科医で,ほとんど何でもありの研修時代から出発し,後から精神療法を学び始めたせいかもしれない。
たとえば,躁状態のとき買い散らかしたモノで自宅の床が文字通り埋め尽くされ,足の踏み場がなくなっているせいで退院できない患者さんの主治医になったときには,とにもかくにも退院先を確保するため,ワーカーさんと一緒に患者さん宅の掃除に行ったりしていた。もちろんご本人の同意を得ていたし,最終的に退院にこぎつけたときには感謝もしていただいたのだが,今から思うとあまりに単純素朴な「役立ち方」をしようとしていたと思う。少し後になって精神分析的精神療法のスーパービジョンを受け始めた頃,スーパーバイザーから「あなたのしていることは役割が違う」と言われ,「職能に応じた役立ち方というものがあるのだ」(!)とそこで初めて愕然としたのだから,我ながらあきれてしまう。
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