Japanese
English
- 有料閲覧
- Abstract 文献概要
- 参考文献 Reference
- サイト内被引用 Cited by
1.はじめに
1995年1月17日に発災した阪神淡路大震災、そして同年3月20日に東京での地下鉄サリン事件の経験をもとに1998年に創設された日本災害看護学会から17年が経過しました。その間には多くの災害が発生し、その度に看護職の皆様は前線で被災地の人々の支援活動を行い、その経験を積み上げながら災害
看護学の発展が促されてきています。それは世界の看護界に大きく貢献するものでもありました。阪神淡路大震災までの災害看護と比べると隔世の感があるほどの発展がされたという誇りが2011年のはじめまでは私にはありました。
しかし、2011年3月11日に発災した東日本大震災の衝撃以降、看護は新たな局面に至ったと第13回の学会に参加しながら強く思いました。それでも被災地の前線で活動された看護職の皆様は、創造的で建設的な工夫
をされたり、活動経験をもとに新たな提言をされたりされていました。被災をされた看護職の方々は、非常に厳しい状況下でありましたが、精一杯の模索をされていて、胸を打たれました。
今回の学会でもまた、その時にまだモヤモヤしていたものが更にクリアになり、次への示唆を頂くことになるのではないかと思います。私は非力ですので、具体的な次への示唆を語れる段階ではありませんが、最後の方でキーワードのような形で、お話しできたらと思います。
災害看護学会の基礎は学者の集団から始まったわけではなくて、誰も災害看護学という知識を体系的に持っていた人はいなかった時から自分たちの経験を集めながら、その経験をシェアすることの中から次への考え方やシステムが開発されていったというように思います。経験から学びながら災害看護学をどう育ててきたのか、そしてどこへ行こうとしているのかについて少しお話をさせて頂きたいと思います。
経験から学ぶということでは、個人的経験からその意味を模索することも大切ではないかと思います。たとえば、私の個人史なのですが、三歳の時に第二次世界大戦で父親を失いました。戦争の被害者の家族であります。四歳の時に高知で南海大地震を経験して、おぼろ気ながら瓦が飛んでいる様子を覚えてい
ます。六歳の時に左上半身の火傷を負うという事故に遭遇しました。自ら招いた事故なので誰をも咎めることは出来ないのですが。それから高知にいましたので小学校から大学まで毎年台風に出合いました。大きな台風もあれば、小さい台風もあって、しかし高知の人間として台風に備えるということを身体が覚えました。これが後に随分と役に立っています。いいことなんですけれど、高知は最近あまり台風が来なくなりました。28歳の時に高知では台風10号に遭遇し、死傷者160人、全半壊1万3千816世帯が被災しました。30歳でイスラエル留学中にテルアビブのロード空港で日本赤軍による銃乱射事件が起こりました。自分は空港にはいませんでしたが、小さな国の表玄関を日本人のテロが襲ったという衝撃を受けました。34歳で高知の台風17号に遭遇しました。このときは、高知に帰っていましたが、「非常事態宣言」がされて、すぐそばの川の堤防が決壊し、教員宿舎の2階ま
で浸水するという経験をしました。そして「神戸は地震が来ませんから」と誘われて、兵庫県立看護大学立ち上げのために神戸で住むようになりました。そして1995年、53歳で阪神淡路大震災を経験を致しました。このときにはこれは天命だと思いました。ちょっと古臭い言い方で申し訳ないのですが、それまでは精神看護学や外科系成人看護学にかかわっていたのですけど、私自身はこのときには自分
の専門がシフトしたなというふうに思いました。なぜ私が個人的なことを申し上げるかというと、やっぱりそれぞれが歩んだ道は自分の個人的な体験から培ってきて、その中から意義を見出していくのだと思います。先程申し上げた第二次世界大戦の後遺症は、私は自分の父親が死亡した32歳まで背負って生きていました。そこである事件があって自分は抜けられたなという体験です。大災害の後遺症は長く続くというのを身をもって感じているので皆様方と一緒にこの学会を立ち上げた
時、この学会が焦点を当てるのは直後のものだけではなくて、中長期的なことに焦点を当てていきたいというのが最初からの願いだったのです。
Copyright © 2013, Japan Society of Disaster Nursing All rights reserved.