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1968~1970年(透析療法との出会い)
1957年に看護学校を卒業,県立広島病院小児病棟に勤務し,主として未熟児室を担当した.1959年に横須賀共済病院に再就職し,産婦人科病棟の新生児室勤務,長女の出産を機に,附属の准看護学校に配置された.三浦半島における最大の総合病院であるにもかかわらず,当時導入された基準看護を満たすには,准看護教育を続けていては困難であることは明らかだった.私は前任者の意思を受け継ぎ,教育課程の変更に取り組んだ.1967年,ようやく進学課程として開校することができた.1968年9月,6か月の厚生省専任教員養成講習を終了した私を待ち受けていたのは,臨床指導者として病棟への配置交代であった.
結核病棟を一般内科病棟に変更したばかりの現場は,毎日が戦場のようであった.病棟を戦場化させる元凶が透析であった.このときの挫折がなかったら,現在の私は存在しなかったと思う.ほとんどのスタッフが嫌がる「透析」とは,いったいどういうものなのか.教え子に手順を聞きながら手伝ううちにいろいろな問題点がみえてきて,これは中途半端な好奇心ではやれない治療ではないかと気づかされた.尿毒症による昏睡状態一歩手前で始めた患者は,回復することもなく亡くなられた.そうした状況の繰り返しに,いささか無力感に陥りかけたとき,新任の研修医笹岡医師が「明日からYさんを連日透析する」と言うのである.当然のこと,病棟中にブーイングが起こった.「この治療はセレモニーではない.患者の命を助けるためのものだ.今までのやりかたでは助かるものも助からない」と主張した.1週間後の朝「ベッドから降りて歩かせるように」との指示で,私は怖がるYさんの前に立ち両手で支えた.彼女と付き添っていた母親が涙を流していた.私は今でも,あの日の感動と興奮を忘れることはない.当時透析療法で生きられるのは5年生存が限界と言われていた.Yさんは透析治療4年10か月目に,24歳の生涯を閉じられた.
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