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はじめに
介護・終末期のリハも少しずつ,市民権を得つつあるようにも思うが,多死社会が目の前にせまっているというのにその動きは遅々としていて,もどかしい。診療報酬や介護報酬などの報酬とは別に,純粋にリハ医療の流れ(図1)から考えると,退院してから先の維持期(生活期)リハは死ぬまでなのか,途中で打ち切られるのかもはっきり言及する人はなく,いまだ不明確である。利用者の機能が改善しないという理由で,現場のケアマネジャーはケアプランからリハ関係者の介入を断ってしまうことがたびたび起こっていると聞くと,どうも死ぬまでではないらしい。果たしてそれでいいのか。
高齢者介護研究会(座長:堀田 力)の「2015年の高齢者介護〜高齢者の尊厳を支えるケアの確立にむけて〜」1)では,尊厳ということばが介護の世界に高らかに掲げられた。それに基づくまでもなく,死にゆく人のケアの質が「どうせ死ぬのだから」と投げやりであったり,いい加減にされたりでは介護が尊厳から遠のいてしまう。一生を閉じようとしている人を,尊厳を保って送るのは人間の道として当然である。そのためにリハの介入が避けては通れないというのが筆者の信念である。
先日も特別養護老人ホームの関係者が,入所した高齢者のおむつを替えようとして内転拘縮を起こしてしまっている股を開いた際に,大腿骨の骨折を起こした,と嘆いていた。それは骨を折ってしまった介助者だけが悪いのではなく,そのような状態になるまでのケアのあり方,すなわち介護期・終末期のリハ的な考えが欠落しているところに問題がある。
人の最期が惨めであってはならない。非人間的であってはならない。そう考えるのは不思議でも奇妙な考えでもない。普通の人が考えることである。“リハビリテーション”の語源である「ハビリス」は「らしい,ふさわしい」といった形容詞で,そこから,「障害をおっても年をとっても人間らしく暮らし,人間らしくある」という全人的復権の意味を引き出した。介護期や終末期のリハはそこから出た考えで,人々の当たり前の願いを保障しただけである。
現在リハ医療に求められているのは,機能が少しずつ衰えていく人へのケアを評価する手法を確立することである。スキーのジャンプはたった数秒の間に地面(雪上)に落ちてくる競技である。それを飛距離や飛型,着地の姿,風向きなどの環境要因などで評価する。機能が低下していく人の命の最期もこのような観点から工夫すれば評価は不可能ではない。
繰り返して言うが,これは報酬うんぬんの話ではない。リハ医療の品位,矜持にかかわる問題であることを訴えたい。
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