書論
中動態の歌
伊藤 亜紗
1
1東京工業大学リベラルアーツ研究教育院
pp.382-385
発行日 2017年7月15日
Published Date 2017/7/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1689200383
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1 世界に対してできる作用
15年ほど前に、初めてバリ島のウブドという村を訪れた時のこと。薄靄の中で目が覚めた私は一瞬、国立競技場のピッチのど真ん中、しかもサッカーW杯の決勝戦がまさに行われているピッチのど真ん中に自分が横たわっているのではないかと錯覚した。満員の観客席から湧き上がる歓声にも似た、地鳴りのような生き物たちの大合唱が、夜明けのウブドを包んでいたのである。ホテルといっても壁のない部屋で私は、天井から吊られた蚊帳の中でじっと横になったまま、ジャングルのあらゆる葉の陰、あらゆる石の下、あらゆる水の辺に生き物がいて、それら一匹一匹が自分に可能な方法で音を出し、満足し、また沈黙に帰っていく様子に、じっと耳を澄ませていた。
虫もいたし鳥もいたしトッケイという鳴くヤモリもいた。面白いのは、この大合唱には時間的に移ろう「模様」のようなもの、パターンの変化のようなものがあったことだ。もちろん楽譜はないが、かといってただのカオスでもない。右の藪からある種類の虫の声がわーっと聞こえてきたかと思えば、今度は奥の田んぼから別の種類の虫が一斉に声をあげ、その音の層に穴を開けるようにトッケイが鳴き始め、その違和を埋めるようにして樹冠で鳥たちが鳴き出す。そんな具合に、ゆるやかな構造が生まれては消え、消えてはまた生まれながら、生き物たちの大合唱は日が昇るまで続いたのである。
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