看護学は学として成り立ちうるか
Ⅻ.文学と科学(2)
品川 嘉也
1,2
1京都大学医学部(生理学)
2京都大学医療技術短期大学部看護科(情報科学)
pp.171-176
発行日 1976年3月25日
Published Date 1976/3/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663906971
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コアラ園に南十字と天の川 良夜
シリーズの終わりにあたって
本シリーズ‘看護学は学として成り立ちうるか’に対して,連載中から多大の反響を寄せていただいた.それらの方がたに対し深く感謝の意を表したい.反響の多くは当然のことながら‘看護学は学として成り立ちうるか’という問いに対する様様の回答であった.もちろん,この種の問いに対して一義的な回答が存在するはずはなく,十人十色の解があるはずである.様々の解を通して科学論が盛んになることを望みたい.
熱田小津江氏の解は‘看護は科学になってもらっては困る’(看護教育,16, 649, 1975)であった.ここでは問いを‘看護は科学として成り立ちうるか’と読みかえておられる.これはこれでもとの問いに対する立派な解であることはいうまでもない.野島良子氏の‘看護は科学であらねばならないか’(看護教育,16, 483, 1975)も同じ立場からのお考えである.この立場についての私の解は‘現代ほど,看護学が科学である時代はなかったのではなかろうか’(看護教育,16, 742, 1975)である.ここでは例として同じ立場からの3通りの解を引用してみたわけであるが,私はこれらの解はすべて正しいと思っている.むろん真の正解は歴史が与えてくれるものであって,野島氏の論文にあるように,‘看護は学として成立したか’と過去形で問われるときに,問いは本当の意味を持つであろう.
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