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はじめに
「『教育的現実の理解』について反省してみて直面する大きな困難は,「現実」という概念の不統一にある」1)。H.ダンナーは,これを解明するには,あらゆる人間的なるものについていわれる現実世界から出発しなければならないこと,そしてこの現実のもとに何が理解されなければならないかを説いた。看護教員にとっての教育的現実とは,さしあたり学生と関わる教育実践といえよう。その中でもわたしが重きをおいているのは,学生が身体ごと「看護」に関わっていく臨床実習である。この臨床とはトポス的空間であり,学生にとっては,他者性を前提にした人と関わることの面白さと,先入見の自覚という対照的なことがらを実感する場である。そのため,学生は病む人との苦悩や喜びといった人生の一片に触れることで生きる意味を探究しはじめる。
このように臨床は,生き生きとした学びの場であるにもかかわらず,わたしたち看護教員が「教育的現実」にもとづいて話し合おうとするとき,その現実は先入見に差し挟まれた判断であったり,すでに結論づけられたことが多いように思う。しかしそれ以前に,「何がそこで生じているのか」,現実そのものへの関心を寄せながらも,その現実とどのように向き合い,そして理解すればよいのか,その困難性を感じていた。
そのような中で,ある看護学実習に参与観察する機会を得た。その場に臨んで,わたしの目に飛び込んできたのは,さまざまな人々と学生との交流,当事者間の思いによって複雑に絡み合いながら成立している臨床という空間の奥行きや彩りの豊かさだった。
わたしが参加した実習グループは,看護学科2年生(6名)で,患者に初めて援助をする2週間の実習を行う。学生たちは,その実習で出会った体験を,カンファレンスで「話し,共有しながら」看護を学ぶ。本稿はそのカンファレンスを中心に,協働的に看護について考えていく過程を記述していこうと思う。その記述とは,何かについての明らかな結果ではなく,至極日常的な看護学実習の一場面の記述に過ぎない。しかし,その時間の重なりの中に,教育的現実が埋もれているのではないだろうか。ここでは記述することを手がかりに,教育的実践の現実に内在する省察に着目することを試みる。そして実習後の教員の語りを通して,その内実に迫ることを模索してみたい。
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