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はじめに
先日,久しぶりに神戸にあるいくつかの公園を訪れた。
広場には,サッカーをする子供の声が響き,語り合う子供連れの母親たちの姿が緑道にあった。どの公園にも日常が戻っていた。訪れたのは,被災直後から被災者が避難場所として集まり,自立的に助け合って避難生活を送ってきた避難所,いわゆる「テント村」が設立されていた公園である。兵庫区の公園を訪れたとき,掲示板一面に「お知らせ」が貼られているのに気づいた。そこには,全国の支援者に対する感謝と,周辺住民に対するお詫びとお礼,避難者移転の目処が立った報告と避難所撤去の計画について示されていた。住居として利用していたプレファブは,市の教育委員会をへてキャンプ場で再利用されることなどが報告されていた。
「どうにか『避難所』としての役割も果たしてこれました」その文字を目で追いながら,設立当時に語っていたリーダーの言葉が思い起こされた。「最後の被災者が住む場を見つけることができるまで,この公園に住み続けるつもりです」彼の思いは達成できたであろうか。そして最後に,今回報告する下中島公園を訪れた。公園の片隅,戦災復興を記念した石碑の横には,「あれから五度目の夏が須磨にもやってきた。私たちは負けないそ」と書かれた立看板が残っている。この太字部分は,幾度も塗り重ねられ,長かった避難生活を物語っていた。
阪神・淡路大震災からの復興の5年、4万3000戸の仮設住宅では,最後まで残っていた世帯への公営住宅の鍵渡しが終わった(1999年12月現在)。街では,最後まで事業化が検討されていた神戸市東灘区の森南第3地区で土地区画整理事業が着手された。これで,計画された災害復興都市計画事業のすべてが着手されたことになる。被災地では,70を超えるまちづくり協議会が結成され,各地で住民参加のまちづくりが実践されている。そして,震災特例措置によるさまざまな復興メニューが示され,わが国初の公営コレクティブハウジングやまちづくり会社の設立など,行政,専門家やNPO,そして住民との新しいパートナーシップが模索されている。さながら被災地は,今後の高齢化社会へ,そして新たな市民参加型まちづくりへ向けたインキュベーターの様相を呈している。
本稿では,「震災復興のまちづくり」として「下中島公園テント村」を事例としてとりあげる。それは,災害弱者として,まちづくりへの機会から遠ざからざるを得ない状況におかれていた避難生活者が,行政や支援者から単に与えられるのを待つだけではなく,自立的な環境改善と要求行動によって自らの住む場を構築してきた事例の報告である。それは,これまであまり語られることのなかったもうひとつのまちづくりの姿である。
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