書評
山本周五郎 著—「その木戸を通つて」
pp.65
発行日 1960年8月10日
Published Date 1960/8/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662202157
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この短篇集には,「その木戸を通って」「失蝶記」「古今集巻六五」「ちくしよう谷」の四篇が収められているが,山本周五郎氏の短篇は最近時代もの小説の中では非常に高く評価されるようになり,静かなる山本周五郎ブームが来たといわれている.
山本周五郎の時代小説は,いわゆる剣豪ものなどと違つて,スーパーマンの活動ではなく,日常われわれの近くにいる平凡な人間の生活感情を描いているところに特色がある.山本周五郎の作品では,ほとんどチヤンバラというものはない.刀をもつていても抜くようなことは珍らしい.現代のサラリーマンと同じような武士の生活が描かれていて,しかも人間の感情を強くゆさぶる感動的なストーリーである.「その木戸を通つて」は,平松正四郎という侍の屋敷に見もしらぬ娘が訪ねて来て,いつしか居つくようになる.この娘は実は記憶喪失症にかかつていて,自分の身分も名前も知らないので「ふさ」と名ずけるが,それが原因で家老の娘との婚約が破れる.正四郎は,そのふさが好きになつて結婚し,子供まで出来るが,時々ふさの記憶が少しよみがえつて,木戸のある屋敷とその木戸を通ることを思い出す.ついに,ある日のこと,ふさは木戸を思い出して行方が知れなくなる.理想の女性像への限りない愛着と,その理想像はまた永久に消えてゆくというテーマで,涙をもよおさせる美しい作品である.
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