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獨立ということ
松田 道雄
pp.6-8
発行日 1950年8月15日
Published Date 1950/8/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661906684
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いつも結核豫防週間にはどこかえひつぱりだされるのだが,今年はかわつたところによばれた。ある新制中學の生徒たちが,どこかで私のかいたものをよんだらしく,私に學校へ來て結核のはなしをしてくれといつてきた。おとなのやつている會が豫防週間にたのんでくるのは,みんな,私たちの會はこういうことをやりましたということをよその人にみせびらかすためにやるので,いつてみてがっかりすることが多かつた。形式的にひらいた會に,形式的にあつまつた人が,形式的にきいてかえるというだけだつたからだ。きこうと思つていない人に,話しをきかせるほど,ほねがおれておもしろくないことはない。そういう會は,はなしをするものにも,はなしをきくものにも,つまらないことだから,私は,おとなの人がたのんでくる結核の講話は大ていの場合におことわりしている。ところが,こんどは相手が子供である。それも私のかいたものに興味をもつてたのんできたのだから,私にはめずらしい知己である。子供が自分から思いたつてやつていることをさまたげるほど子供のそだちつつある心をきずつけるものはないとふだんから考えているので,子供たちのたのみをことわることはできなかつた。當日になつて學校へ行つた。
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