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戰爭中の獨逸の醫學といふ註交だが在獨短期間であり,所謂伯林戰線の空襲下のことで勉強も意の如くならず,且日誌帳を初め苦心して集めた書籍資料等全部を失つたので,記憶をたよりに戰時中の獨逸の生活を中心に述べさせて載き度い。
長い旅行のあと私が伯林へ着いたのは1943年10月下旬で,薄陽のもれるTiergartenを散歩すると,優美なRosengartenの晩い薔薇や之をとり卷く黄葉が如何にも崩れ行くものの哀れな美しさをとどめて居たが,果然11月から開始された大空襲の連續で,端麗な伯林は勿ちにその昔の俤を失つてしまつた。其の頃の伯林での話題はAlarm(警報)とKaputt(破壞)とausgebombt(これは適譯が無いだろうと思つたら戰災に會ふといふ語を教へられた)の三つに盡きる樣だが,私も伯林着早々ausbombenされ,當時輕工業に對する統制が極度に巖しく,洗面用具,スリツパ,カラーボタン等の日用品が全々姿を消し,之を調達するのに非常に苦心したのでそれ以後は少く共洗面道具だけは常時手提カバンに入れて携行することにした。避難先のGrünewaldではすぐ上の階迄燒失したので,植物園の附近に轉居,此處のVillaでは庭先に2噸の大型爆彈(幸に盲彈だつた)が落下したので,途に思ひ切つて伯林郊外のRangsdorfに疎開し此處で比較的安全に生活が出來た。伯林の爆撃は東京に比べて爆弾が多かつたが在留邦人約300名中戰災による死亡者は僅に1名で,負傷者も數名に過ぎなかつた。當時在獨醫師は交換教授の八田(温泉),古森(外科)博士,陸軍より北條(細菌),梶浦(内科),菊地(眼科)博士,海軍より私の合計6名に過ぎず,皆最後迄伯林に踏み留つて勉張してゐた。
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