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はじめに
本稿は聴覚的理解が比較的良好である失語症者への言語療法における心理学的アプローチの一つの試みを,実例を通して紹介することを目的としている.
言語療法における心理学を考えるとき,それは2つに大別される.治療環境としての心理学と治療方法における心理学である.前者は患者の治療意欲や心的安定に関わるものであり,患者との接し方や建物,家族の問題,患者の精神状態など,いわゆる多くの人が心理学といえば頭に思い浮かべるものである.一方,後者は治療方法自体に関わるものであり,治療方法の発想・構成に生かされている心理学といえよう.
現在,言語療法において中心となっている技法は,Schuellら(1964年)によってまとめられた刺激法である.統制された刺激(主として聴覚刺激)を反復して与えることにより言語機能が再組織化されるという考えに基づくものである.実際の訓練としては,絵カード等を用いての指さし・復唱・呼称等が中心として行われている.この方法は実績を持つ方法として広く用いられており,オペラント条件づけに基づくプログラム学習法同様,単純化・構造化されているが故に,その適用範囲も広いという特徴を持っている.一方,思考やコミュニケーションを重視するWepman(1972,1976年)らの考え方は,PACE(Promoting Aphasics' Communicative Effectiveness)(DavisとWilcox,1985年)へと発展した.これには新しい情報交換を主とした対話構造,コミュニケーション手段の自由な選択などが導入されており,直接法といえる刺激法の一方通行性,言語偏重性に一石を投じる実用性と,自由さを持った方法ということができ,我が国でも伊藤(1988年)によって有効事例が紹介されている.
これらの方法は,いずれも理論的妥当性と有効性を持っている.発語やコミュニケーションの“メカニズム”に対する考察が深くなされている方法といえよう.しかしながら,言語療法としての方法の中により心理学を生かすべく,さらなる検討を行っていく必要が感じられる.
今,“生きた言葉”というものを考えてみたい.言葉には,意味を伝える記号としての役割があるが,りんごを食べたいなという思いが言葉となった「りんご」と,「りんごと言ってみましょう」と促されて発せられた「りんご」とは,その質においてまるで違うものである.前者は気持ち・感情のこもった言葉であり,その発生過程には前言語的“思い”の段階がある.後者は、たとえそれがきれいな言葉であっても気持ち・感情のこもっていない言葉である.その発生過程に前言語的“思い”はない.前者を“生きた言葉”,後者を“記号としての言葉”と呼ぶことにするとき,我々言語療法士は患者から“生きた言葉”をこそ引き出すことに努力しなければならないのではないだろうか.とりあえずは「りんご」が「いんご」になろうとも「んご」になろうとも構わないと思われる.“生きた言葉”を使う体験の積み重ねによって,失語症者の言語的改善が効果的に促進されると思われる.
次に我々が働きかけるべき対象について考えてみたい.我々は言葉に障害を持つ患者を前にしたとき,つい言葉をなんとかしようと思いがちである.結果として,人間不在の機械的セラピーとなってしまうことが多い.評価に終始するセラピーもこのタイプである.そこで,言葉の持ち主であり,言葉を操る“主体”の存在を仮定してみたい.もちろん,これは目には見えないし,存在の証明も不可能であるが,“俺”あるいは“私”として誰でもが存在を感じているものである.長年失語症の患者と接してきて感じられることは,主体に働きかけることの重要性である.すなわち,主体がどう感じ,どのような体験をするのかを主眼に置き,場と課題を設定することが必要であると思われる.そして,そのとき,セラピストは主導権を持ちつつもあくまで援助者であり,主役は患者自身であるという自覚を持つことが必要と思われる.
ここで紹介する心理学的アプローチの試みは,このような考えのもとに,主体が生き生きとした体験をし,心を動かし,結果としてそれが言葉になることを狙ったセラピーである.症例数も100例に満たないが,その効果が確かめられたので紹介したい.
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