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1851年,メルヴィルが32歳の時に発表した『白鯨』(阿部知二訳,筑摩書房)は,エイハブという片脚の船長を主人公にした一大長編である.エイハブは,白鯨に片脚を奪われてからというもの,白鯨を「邪悪な魔の執念が凝って顕身したもの」と見なし,経済的な利害など度外視して,世界の果てまで白鯨を追いかける.彼は,その身に受けた障害だけではなく,おのれの思想上の憤怒もすべて白鯨によってもたらされたものとして,「アダム以来全人類が感じた怒りと憎しみとの全量をことごとくその鯨の白瘤に積みかさね」たのである.そればかりかエイハブは,自分を障害者にした白鯨に悪の体現を見て,「その底知れぬものがわしには憎うてならんのだ.で,あの白鯨めが使いであろうと本尊であろうと,わしはこの憎しみをあいつに向けて晴らしてやるのだ」と,白鯨の背後に彼が見いだした形而上的な悪に対しても闘いを挑むのだった.
そんなエイハブに対して,部下たちは,白鯨は動物なのだから本能の赴くまま彼を襲ったにすぎないとして,「畜生に恨みをもつなんて,船長,罰当たりなことです」と,たしなめる.しかしエイハブは,「人の心を狂わせ苦しめるすべてのもの,厭おしき事態をかき起こすすべてのもの,邪悪を体とするすべての真実,筋骨を砕き脳髄を圧しつぶすすべてのもの,生命と思想とにまつわるすべての陰険な悪魔性」など,すべての悪が白鯨という形で現れたものと見なすまでに至る.エイハブにとっての白鯨は,この世の始まりから存在していた悪そのものであり,彼はただ白鯨を仕とめることに人生の意味を見いだし,そのためにはいかなる利益を犠牲にすることも厭わなくなる.そして,白鯨を倒すというただ一つの目的に向かって,「かつての正気だった日に何かの尋常な目的に向って注いだよりも,何千倍も強い力を罩めて対するようになった」エイハブは,結局,自ら銛を打ち込んだ白鯨とともに海底にひきずりこまれるのである.
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