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はじめに
「目で見ながらマヒの右手に触れると,わずかに触れられている感触があったので,目を閉じてもたぶんそれに似た感触はあるだろうと思っていた.ところが目を閉じると手首や肘などの関節がどこにあるのかがわからないどころか,ほとんど感覚はないに等しかった.目に見えない感覚の世界においては私の右手は存在していなかった…」(脳卒中右片麻痺,発症後5年経過)1)
脳卒中片麻痺患者に対する平行棒や手すりを用いた立ち上がり練習は,どこの病院や施設でも行われる一般的な運動療法である.その運動療法を設定し,実施しているセラピストは,患者の体幹が前屈し重心が前方に移動しているか,健側の上肢で体を引きつけていないか,患側の下肢にも荷重できているかなどのバイオメカニカルな視点をもって観察を行う.立位になった後のセラピストの関心は,姿勢の直立性や対称性に向けられる.しかし,これから立ち上がりを行おうとする患者に対して,目を閉じた際に患側下肢をどこに感じているか,足底のどこに荷重を感じているのかとセラピストが尋ねることはあまりない.患者は自己の身体や運動をどう感じているのか,踵や膝や股関節,あるいは肩関節の位置関係をどのように認識しているのか,どの部位に対してどのような注意を払っているのか,どのような運動イメージを描いているのか,そしてどのように思考しているのかなど,動作に関する患者の内的側面に関心を向けるセラピストは少数である.このような患者の内的な側面は,運動療法を遂行する上で必要とされない情報なのだろうか.
冒頭に示した記述から,脳における身体表象(body representation)において,視覚に基づいた視覚表象と体性感覚に基づいた運動表象に解離がみられており,複数の身体が患者の中に存在していることがうかがえる.脳卒中片麻痺患者における表在感覚や深部感覚の異常は,頭頂葉での異種感覚情報の統合を阻害する可能性がある.身体は自己同一化されることではじめて,自己の存在,自覚,状態などに関わる「身体の知」を創造し,身体が自分のものであるという身体の所有感覚を生みだし,ひいては運動を起こしているのが自分であるという運動の主体感覚を生みだす.しかしながら,身体の所有感覚も主体感覚も喪失している患者に対して,動作練習と称して立ち上がり動作や歩行動作の反復を求める運動療法が何十年にもわたって臨床場面で繰り返されている.これは脳卒中片麻痺に対する現在の運動療法が抱える重大な問題点である2).脳卒中によって失われたものが「脳のシステム」である以上,運動療法は脳システムの治療を目指すものでなければならない.骨,関節,筋,反射など神経運動学に基づいて単純化された運動療法では,複雑なシステムの破綻に対応することはできない.なぜなら,随意運動は原因に対して結果が定められているような因果律的な関係性を持たないためである.複雑なシステムを治療するためには,複雑な手続きを内在したシステムアプローチが不可欠である.近年,脳をシステムとして捉え,認知過程の再組織化によって,麻痺からの回復に挑戦する運動療法が,わが国でも注目され始めている.それがイタリアで誕生した認知運動療法である.認知運動療法の実践には,患者の内的側面を含めた詳細な観察と綿密な治療計画がセラピストに求められる.本稿では,セラピストの思考の展開を中心に,サントルソ認知神経リハビリテーションセンター(Santorso Neuro-Cognitive Rehabilitation Center:以下,SNCRC)での研修中に治療経験を得た症例を提示しながら,脳卒中片麻痺に対する認知運動療法の臨床アプローチと効果について概説する.
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