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この20年来,科学の進歩に裏打ちされた医学・医療の進歩は目覚ましく,なかでも細胞分子生物学,免疫学,遺伝子工学の発展に支えられた遺伝子治療,臓器移植も成功する時代に入り,人間の探求心は止まるところを知らず展開し続けている.そんな科学先行型の近代医学・医療の担い手である医者の人間性,人格,倫理観は,科学の進歩に十分耐え得るだろうか.言い換えれば科学を使いこなすだけの深さ,高潔さを備えているだろうか.答えは“否”と言わざるを言えない.それは,数千年前にソクラテスや釈迦やキリストが教えた哲学や,宗教など心の世界の消息は,食物の冷暖,甘辛の味を実感として伝えられないのと同じで,他の人や次の世代に伝えられ得ないものであることも容易にわかる.無論,哲学書や教書,聖書や経典などは蓄積され継承された遺産であるが,それを何度読んで理解しようとしても概念的にしか会得出来ないものである.生死の問題の神秘さや,自由平等の尊さを知性の奥底まで喚起されはしてもやはり未だ観念的な理解の域を出ていないのである.生死の問題を実感として解決し,安心立命した毎日を送る境涯になり,また,見るもの接するものが皆平等で自由な存在であり,森羅万象生きとし生ける物全てが自分と同じ生命(いのち)であり,無限の心そのものであると自然に認識し得る境涯になった人間に備わっている生命観や倫理観を持つことなど,とても不可能である.何故なら,そのような「心」は,誰からも取り出したり,それを文字や言葉で表現したりすることは出来ないからだ.古人はそれを“心不可得”と言った.従って,優れた哲人や宗教者の境涯,すなわち「心」を得るには,何千年何万年経とうとも各人が生まれたゼロの時点から,すなわち幼稚園児のレベルから努力して,自力でその域に達する以外にないからである.そして,その境涯,心で生きることは,その人一代限りなのである.それに反して科学の知識はコンピューターにでも記憶させ,蓄積させ,いろいろな処理を施して継承することが可能だから,年々高度化し,多様化した豊富な知識となり利用できるので,科学は大進歩を遂げ得ることになる.しかし,今日に限らず今世紀に入って,近代医学の発展とともに「医の倫理」という思想や言葉はなかった訳ではない.インフォームド・コンセントの基本を支えるヘルシンキ宣言を見ても分かる.そしてまた,それ程,先輩達が「医の倫理」を守った立派な「医の心」の持ち主であったとは思えない.今までは,それで何とか医学・医療がやれたのだと思う.しかし,ここまで進歩した近代医学・医療となると「医の倫理」もかなり厳しく追求され,守らざるを得なくなってきたのである.そうでないと医学・医療そのものの存在意義が疑わしくなってくるからである.
本当の「医の心」は,医の倫理も医者の人間性も全て包括した普遍の精神,すなわち生命(いのち)そのものであって,医者に限らず萬人が具有しているもので,萬物の霊長たる人間として生まれた限り,認識すべき素晴らしいものに違いないのである.これは,人間が我欲を捨て,覇権意識や功名心を無くし,自然の生命に対して徹頭徹尾謙虚になって自分を無くすことによりその「心」に接し得るのかも知れない.自然の生命力に対して謙虚になり,従順であることが「医の心」・「医の倫理」を実践することだと思う.英国ノーベル賞作家Aldous Huxleyの残した,「Doctor treats, Nature heals」も,大いに傾聴すべき言葉だ.以上の理由から,「進歩した近代医学・医療」と,「その担い手の心」との間の不均衡(dis—crepancy)を如何に無くすか,最小限にするかが21世紀の医学・医療の課題である.
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