生体の科学 40巻1号 (1989年2月)

特集 分子進化

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 ダーウィンの自然淘汰説から一世紀ばかりをへた今日,生物進化についてのわれわれの理解は実に豊かになってきた。これは,ダーウィンが自然淘汰説を唱えるにあたって仮定せざるをえなかった"遺伝の強い原理"についてのわれわれの理解がメンデル遺伝学の発達とともに深まってきたからにほかならない。しかし,生物進化は個体レベルの事象ではなく,集団に起こるものであるからメンデル遺伝学に立脚した生物集団(種)の遺伝的構成を支配する法則を究明することが大切で,これには集団遺伝学の発達が大きく貢献してきた。ダーウィンの自然淘汰説はこのようにしてメンデル遺伝学に裏付けられ,生物進化を説明する唯一の指導原理として広く認められるようになってきたわけで,1950年代前半までにはネオ・ダーウィニズムまたは進化の総合説として不動の地位を占めるにいたった。この説によると,生物のいろいろな形質はすべて適応進化の産物であり,淘汰に有利な突然変異が累積的に集団内に蓄積されて生物進化が起こる。このような生物進化の研究はほとんどが目に見える表現形質を対象として行われてきたものであるが,現在ふりかえってみると進化の総合説を遺伝学的基礎に基づいて証明する確固とした証拠はあまりないように思われる。

 しかし,1950年代からの分子生物学の発達によって,遺伝子の直接的産物であるタンパク質のアミノ酸配列を種間で比較して分子レベルでの進化を定量的に扱うことが可能となってきた。

遺伝暗号の可変性 山尾 文明
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 I.はじめに:普遍性神話の崩壊

 1960年代に解読された遺伝暗号は部分的な変化を除いて現在のすべての生物に対し基本的に共通である。これは現存するすべての生物がその起源を同じとすることの一つの証拠とされている。同時に,この普遍性は現在の遺伝暗号が生命系の進化のごく初期に偶然に凍結された1)ものであり,その変化は遺伝情報のシステム全般に重大な結果をもたらすがために起こり得ないと考えられてきた。1979年のヒトのミトコンドリアに端を発して2),種々の生物のミトコンドリアでの多様な暗号変化が明らかになった3)(図1)。この時点でも,ゲノムが小さく,それがコードする遺伝子の数もごく少数に限られたオルガネラにのみ許される例外としての認識が一般的であった。しかしその後自律的増殖系においても原核,真核生物の両方で少数ながら遺伝暗号の変化した例が見つかった。真性細菌の一種マイコプラズマではUGAコドンがトリプトファンを4),繊毛虫の類ではUAA,UAGがグルタミン5,6)を規定している(図1)。こうした遺伝暗号の多様性はいずれも普遍暗号からの部分的な逸脱ではあるが,遺伝暗号自体も他の生物的諸側面と同様に進化の対象であり変化しうるものであることを示している。したがってこれらの暗号変化の過程を解明して多様化を生じる要因を探ることはきわめて重要な意味を持つ。

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 ダーウィンは「種の起源」の中では人類の起源と進化の問題を直接に議論することは避け,最後の章で,将来この問題に対して光明が投じられるであろうとだけ述べている。しかしかれの本の読者にとっては,かれがヒトはサルと共通の祖先から進化してきたと考えていたことは明らかであった。この本が出版されて以来人類がどのようにして進化してきたのかが多くの人々の関心の的になった。自分自身のルーツを知りたいという衝動が人類学者をつき動かしてきたといえるであろう。

 この問題に答える第一歩は,まずヒトとサルの系統関係を知ることである。つまりヒトが最後に祖先を共有したのはどのサルなのか,またそのサルと分かれて独自の進化をはじめたのはいつ頃だったのか。これらは,人類進化の機構を明らかにする上でも,あらかじめ解決しておかなければならない問題である。

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 生物に見出されるカルシウム結合蛋白質には,いくつかのタイプがある。一つは,酵素活性の発現に強固に結合したカルシウムを必要とする金属酵素,たとえば種々の起源のアミラーゼである。もう一つは,細胞外で行われる血液凝固や細胞接着に関係のあるカルシウム結合蛋白質で,γカルボキシグルタミン酸を含んでおり,プロトロンビンなどが知られている。カセインやカルセクエストリンのように,多数のカルシウムイオン(Ca2+)を結合するカルシウム貯蔵蛋白質といえるものもある。

 そのほか,細胞内にはCa2+情報伝達に働いている一群のカルシウム結合蛋白質がある。20年前に,Ca2+がシグナルの働きをしているとはっきりわかっていたのは,横紋筋収縮だけであった1)。筋肉以外の細胞にまでこの考えを拡張しようと最初に主張したのはR.H.Kretsingerである。彼は,パルブアルブミンの結晶構造に基づいて,細胞内にあるカルシウム結合蛋白質の性質を次のように規定した2)。1)細胞内でカルシウムシグナルの仲介を行う。2)数mMのマグネシウムイオンをふくむ細胞質中で,Ca2+にたいする結合の解離定数はμMレベルである。3)EFハンド構造をもつ(EFハンド構造についてはあとで説明する)。その後,Ca2+を強く結合する蛋白質が多数見出されたが,その大半はパルブアルブミンと相同の一次構造を持つEFハンド型の蛋白質であった。

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 糖脂質は脂溶性部分に糖が結合した複合脂質の一種である。この基部に当たる脂溶性部分の違いによりグリセロ糖脂質(glycoglycerolipid)とスフィンゴ糖脂質(glycosphingolipid)に大別されているが,おおざっぱな傾向としてグリセロ糖脂質は主に植物や細菌類に頻出する脂質である。しかし,動物細胞からもたとえばウニ生殖巣から1,2-diacyl-3(β-6′-sulfoquinovosyl)-snglycerol1)が,またブタ精巣から1-alkyl-2-acyl-3(β-3′-sulfogalactosyl)-snglycerol(セミノリピン)2)など,生理活性を持っていると予想されるようなグリセロ糖脂質が発見されている。

 一方,スフィンゴ糖脂質は主として動物に分布し,活性部位と目されるオリゴ糖鎖の構造は動物の進化に伴って驚くほどの違いを示している。糖種だけに限っても,先口動物の軟体動物(二枚貝)ではマンノース,キシロース,グルクロン酸および種々の0-メチル糖が,また上位の節足動物(昆虫類)にもマンノースやグルクロン酸が共通して存在するが,これが後口動物の棘皮動物や脊椎動物になると0-メチル糖はもちろん,マンノースやキシロースも見られなくなるうえ,ウロン酸に代わってシアル酸が出現してくる。

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 脊椎動物は,さまざまな外敵の侵入から自己を防衛するための免疫系と呼ばれる非常に高度に発達したシステムを持つ。この系は大きく液性免疫と細胞性免疫の二つに大別される。液性免疫は主にリンパ球B細胞により担当されており,抗原の侵入に対し抗体(免疫グロブリン)と呼ばれる蛋白質を産生しこれに対抗する。抗体の種類は数百万種にも及ぶといわれるが,それだけ多種の抗体を産生する機構,またその遺伝子の構造,さらに進化的にいかにその機構が獲得されたのかといった疑問は,免疫学者のみならず生物学に携わる者にとって避けて通ることのできない大きな謎であった。近年分子生物学的手法が免疫学の分野に導入されて以来,それらに関与する遺伝子の単離により,免疫系の多様性に秘められたさまざまな謎が次々に解き明かされた。その中でも免疫グロブリン遺伝子の解析は,もっとも下等な脊椎動物であるサメから,両棲類,爬虫類,鳥類,そして哺乳類に至るまで広く行われており,分子進化学的考察を与えるに足りるだけのデータの蓄積がなされつつある。本稿では,この多様性獲得機構を主に進化的側面から展望し,またこの機構の持つ問題点に対しても若干の考察を加える。なお,免疫グロブリン遺伝子についての一般的事項に関しては,総説1,2)を参照されたい。

連載講座 チャネル研究の新展開

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 細胞の膜電位にはほとんど影響されないが,細胞内のATP濃度の減少によって活性化するカリウムチャネルが見つかっている。心筋ではあたかも細胞内のATPレベルをモニターし,それが減少すると細胞膜電位を負電位に変化させ,細胞の興奮性を抑制する役割を担っているように見える。心臓の栄養血管である冠動脈の血流が障害されると興奮性が減少するが,その際にこのチャネルが関与していると考えられている。骨格筋に見られる同種のチャネルは,筋が疲労したとき細胞外にKイオンの蓄積が起こる事に関係し,膵臓のB細胞ではグルコース刺激による膜脱分極に関与していると考えられている。実験的に記録しやすいチャネルであるので,生物物理学的な興味からもよく研究されているチャネルである。

実験講座

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 中枢神経系や末梢神経節の機能はこれを構築する個々の神経細胞の電気的かつ化学的膜特性によって決定される。しかし,発達した神経回路網に組み込まれている単一神経細胞には隣接する細胞群からの神経回路を経由した干渉や電気的結合などの影響,また周囲の神経細胞やグリア細胞による伝達物質の取り込みもあり,目的の神経細胞そのものの活動に関する確実なデータを得ることは困難であった。そこで問題解決の一手段として考えられたのが胎児より摘出した神経細胞を人工環境下で1〜数週間培養して実験に供することで,これら培養細胞を用いて抑制性ならびに興奮性アミノ酸その他に関する数多くの興味ある報告が今日までなされてきた。しかし,胎児期と生後ではシナプス下膜の化学受容器や膜電位依存性イオンチャネルの分布,密度や性質が異なってくること,また培養液の種類や培養日数で培養細胞の生理的ならびに薬理的諸性質が変化することが知られるようになり,加えて神経系異常と関連する病態動物の脳神経細胞レベルでの研究には胎児よりも幼若および成熟動物から神経細胞を使用したいとの要望が高まってきている。

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 細胞内Ca2+とpHの変化は細胞がそれぞれの機能を発揮する上での情報伝達系として重要な役割を占めている。作用機序を解明する上で有用な手段として繁用されている螢光物質を用いた細胞内Ca2+濃度とpHの測定法についてはすでにその開発者達によって優れた報告が提出されている1-5)。したがってここではあまり論文に書かれていないいわゆる「実験の役に立ちそうなこと」のみ記述した。

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 「運動」は多くのレベルを含む。鞭毛の屈曲も,消化管の蠕動も,表情の変化もすべては運動である。しかし,これでは問題が拡散して整理がつかないので,ここでは個体が環境との関係において引き起こす,まとまりある動きだけを「運動」と考えることにする。動物一般はさておき,ヒトにおいてはこの種の「運動」はどのようにして開始され,制御されるのであろうか? このような問題に取り組むには多くの方法があろうが,今回はひとつの立場として,臨床神経心理学的立場から,この困難な,しかし魅力ある問題を考えてみたい。

 現在までに記載されてきた行動神経学的症候群は相当な数に昇るが,その中から意図的で自由な運動発現の障害に関するものを拾い,整理してみると,二つの症状群に分類することが可能である。

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 "運動"の研究は,"運動"を特殊に担う器官として分化してきた骨格筋を対象に,その収縮機構を中心にした生理学的・生化学的研究が古くから成されており,日本の科学研究のもっとも進んだ研究分野の一つである。一方,"身体運動"の研究は,ヒトを対象とした研究が中心になったため,主に運動をエネルギー消費量の関数として捉える,あるいは運動の作業能力(performance)としてとらえるといった定量的解析が主となり,体力問題,スポーツマンや健康のための運動処方の研究が中心であった。その後,バイオプシーによりヒトの骨格筋の生化学組織学的研究ができるようになり,筋線維タイプと運動performanceの研究や運動に伴うエネルギー消費に関する要因をエネルギー基質の面から物質的にとらえた生化学的研究が主に欧米諸国で行われ,数多くの定量的なdataが蓄積された。この中から"グリコーゲンローディング"という長距離走のための食事法が提案され,また運動の種類,強度,時間などによる様々な現象が明らかにされた。

 このように,日本ではこれまで身体運動に関する科学的研究の中心が体力科学,運動生理学として行われてきたため,生化学的研究が行われる素地がきわめて浅く,1970年代からの生命科学の急激な展開を前にその成果を素早く受け入れる土台が築かれていなかったといえる。

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 京都センチュリーホテルで11月28日から3日間にわたり開催された標記のシンポジウムでは,西塚泰美氏(神戸大)と伊藤正男氏(東大)の企画により22の講演がなされた。その要旨を紹介する。

基本情報

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生体の科学
40巻1号 (1989年2月)
電子版ISSN:1883-5503 印刷版ISSN:0370-9531 金原一郎記念医学医療振興財団

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