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Ⅰ 前史
筆者は1979年に生まれた。幼稚園,小学校,中学校,高校,大学,大学院というそれぞれのステージで生きづらいと感じていたが,メンタルヘルスの世界と縁遠く生きていたため,じぶんが「生きづらい」のだと言語化することもできない状況だった。若かった頃の私が,「生きづらいのではないですか?」と尋ねられたら,鼻で笑っていたと思う。
2008年,29歳で常勤の大学教員として就職したが,直後からうつ状態に陥ってしまった。それまでは学校社会がじぶんに合っていないのではないか,と漠然と感じていたが,社会人になってみると,一般社会のほうがよほどじぶんに合っていなかった。夕方に帰宅してから夕食とともに酒を飲みはじめ,6時間ほど持続的に飲酒,途中で何度も酒屋,コンビニ,スーパーなどに酒を買い足しに行って,日付が変わる頃に就寝時間を迎えるという生活状況に陥った。10年ほどで不眠障害がひどくなり,2019年4月から1年半にわたって大学を休職することになった。
筆者は実際に休職するまで,じぶんが休職をするという可能性について真剣に検討したことが一度もなかった。しかしひとたび休職をした人は,何度も休職を繰りかえす傾向があることを知っていたために,筆者はいまこそ「じぶんの総点検」をするときなのだと思いさだめた。ちょうど40歳になったばかりということも「転機」と感じられた。「精神科」というものに対して大きな抵抗があったが,意を決して通院し,発達障害の検査を受けることにした。じぶんがその当事者ではないかという可能性については,なんとなくながら以前から疑っていた。2019年3月に検査を受け,翌4月にADHDと診断された。
それまで発達障害について,筆者はとくに詳しい知識を持っていたわけではない。少し調べたり,主治医に質問したりしてみると,発達障害が──少なくとも現在の医学では──治るものではないという知識を得た。失望した筆者は主治医に「少しでも助けになるような施設はないか」と尋ねて,発達障害者支援センターを紹介してもらった。同センターでさまざまな検査を受けて,どうやらADHDより自閉スペクトラム症のほうが強いのではないかということが明らかになっていった。まとめた資料をセンターが主治医に送ってくれて,診断書は「ADHD」から「自閉スペクトラム症,ADHD」に変わった。
発達障害支援センターの担当者は復職に向けたリハビリ訓練を障害者職業センターで受けたほうが良いと提案してくれた。追いつめられていた気分の筆者は両方とも承諾した。2019年の晩秋・初冬から障害者職業センターでセミナーを受講したあと,毎日通所して,リハビリ訓練を重ねることになった。認知行動療法やSST(ソーシャルスキル・トレーニング)は,それまで単語自体も概念もまったく未知のものだった。通所するうちに,折しもコロナ禍の時代となって,センターは閉所することになった。筆者は初めて体験した認知行動療法やSSTがおもしろいと感じるようになっていて,また当事者研究なるものを図書館の本で知って,このような領域についてもっと詳しくなりたいと願うようになっていた。認知行動療法やSSTがおもしろかったのは,日常的に交流する通所仲間──多くはうつ病と診断された人──と知的遊戯をたしなんでいるように感じられたからということも大きい。このような状況下で,2019年3月,筆者は自助グループと深く関わっていこうと決めた。

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