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45歳を前にしてジョギングを始めた.動機は至極単純なことで,普通に歩いているだけなのにつまずくし,立って手術をすることがつらくなってきたからだ.小学校の運動会の徒競走では5年生まではブービーメーカー,6年生でやっとブービーになったぐらい走ることが苦手な私がはじめて能動的に走る気持ちになったのは,自分の健康というものに危機感をもったからにほかならない.さっそくスポーツ店でジャージとウィンドブレーカー,ジョギングシューズを購入し,近くの陸上競技場へ行った.自分のイメージでは,徒競走とは違いゆっくり走るのだから5kmぐらいは楽に走ることができると思っていた.しかし,なんと1周400mのトラックを半周もしないうちに膝に痛みを感じ,2周を過ぎた頃には痛みで走れなくなってしまった.歩くことはなんとかできたので自宅に戻ることはできたが,自分の体の衰えに愕然としてしまった.普段の私ならここで諦めてしまうところだが,以前,友人に言われた「動物は歩けなくなったら死んでしまうんだよ」という言葉を思い出し,命根性が汚い私は,「走れないなら歩いてやろう」ということで1カ月間ひたすら5km,6kmと町中を歩き回った.そのうちに膝の痛みはまったく感じなくなった.また,それだけではなく,汗をかいた後に気分が晴々している自分に気がついた.あとでわかったことだが,適度な運動を行うと脳内にβ-エンドルフィンやセロトニンといった脳内麻薬が分泌されるらしい.いわゆるランナーズハイの状態にあったと思われる.そのうち歩くだけということに飽きてしまい,試しに走ってみた.1kmを過ぎても膝に痛みは感じなかった.2km走っても大丈夫.結局,5km走りきることができた.それまでの人生の中で,中学校の学校マラソンで1.5kmを走ったことを最後に長距離走とはまったく無縁だった私が休まずに5kmも走ることができたのだ.それからは走ることが楽しくなり日課となった.当直の日以外は1時間以上走り,月間走行距離は200km以上になった.また,生涯で1度は走ってみたいと思っていたフルマラソンにも挑戦し,完走することができた.だが,とても市中病院の脳神経外科医とは思えないような生活は長くは続かなかった.4年前に大学に戻ってきてからは,走る機会は極端に減ってしまった.せいぜい週に1,2回で,月間走行距離は50kmにも満たなくなってしまった.それでもペース配分さえ間違いなければ,まだフルマラソンを完走できるだけの脚力が残っているのも徹底的に走りこんでいたおかげなのだろう.
さて,本業である脳神経外科医としての自分はどうだろうか.65歳(脳神経外科医40年生)を外科医としてのゴールとすると,脳神経外科医27年生の今は,マラソンにたとえるのなら28kmを過ぎたあたりだろうか.マラソンには30kmの壁というものがある.スタートから順調に走れていたものが,30kmあたりを過ぎると急に足が重くなり,ペースが一気にダウンしてしまうのだ.エネルギー源,特に糖質と脂質の枯渇,脱水,ペース配分の失敗などが原因として考えられている.自分はこの30kmの壁を越えられるような走りをしてきたであろうか.脳神経外科医になって27年,その大半を脊椎脊髄外科医として過ごしてきたが,はじめからそうなりたいと思っていたわけではない.救急救命の第一線で働く脳神経外科医に憧れ,また,旭川赤十字病院の上山博康先生(当時)が,一切無駄な動きがなく,無血でシルビウス裂を分けていくハサミさばきをみて,「自分もいつかはああなれるのか」と何とも言えぬ不安感をもった.そんな自分の転機となったのが,釧路労災病院の井須豊彦先生との出会いである.1993年頃だったと思うが,当時勤務していた病院に井須先生が手術の応援にいらっしゃった.ウィリアムズソーを器用に使って椎体から採骨し,自家椎体による頸椎前方固定術をされていた.その手術に助手として入っていた私は,不謹慎にも自分にでもできるのではないかと思ってしまった.自分のサブスペシャリティーを探していた時期でもあり,また,まわりに競争相手もいなかったことから,「これでいこう」と決めた.それから2年後,脊椎脊髄外科を本格的に学ぶため,井須先生の門を叩いた.偶然ではあるが同じ時期に釧路労災病院で一緒に勤務したのが,現在,札幌麻生脳神経外科病院で副院長をされている矢野俊介先生であった.彼はまだ卒後1年目の研修医であったが,当時はまさか同じ道に進むとは思ってもみなかった.話を元に戻すが,井須先生には脊椎脊髄外科の基本をみっちりと教えこまれた.脊椎脊髄疾患の患者さんとの接し方,画像所見の見方,エアードリル,鋭匙,ケリソンパンチといった基本手術器具の使い方,また学会発表の仕方や論文の書き方など厳しくご指導していただいた.井須先生の手術にはほとんど助手として入らせていただいた.また,しばらくして信用していただけたのか,術者として手術もさせていただいた.井須先生には,小手先の技術だけではなく,外科医としての心構えも教えていただいたと思っている.わずか2年間ではあったが,釧路労災病院での経験は自分の医者人生の中でいちばん楽しく,そして充実した期間であった.あの2年間にきっちりと足固めをしたからこそ,今もこうして脊椎脊髄外科医として走り続けていられるのだと思う.トップアスリートのようにはいかないが,30kmの壁を越える準備はできていると思う.まだまだ急な上り坂も下り坂もあるだろう.ただ,ペース配分さえ間違えることなく,多少苦しくても走り続ける強い気持ちがあれば大丈夫だ.そしてどのようなゴールを迎えるのであろうか.月並みではあるが,一人でも多くの患者さんとご家族に満足していただければ,それだけで十分に達成感は得られるだろう.
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