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横浜市歌の思い出
小学校5,6年の担任K先生は,自分でアコーディオンを弾き,いろいろな歌を教えてくれた.小学校6年の途中で,横浜から女生徒が転校してきた.彼女は,自分の好きな歌を披露するとき,必ず「横浜市歌」を歌った.歌詞はよくわからなかったが,とても素敵な音の響きだった.それに刺激されたのか,担任が中野区に区歌があることを調べ,全員が暗誦するまで歌わされた.3番まであり,今でも1番の歌詞は覚えていて,メロディーも思い出せる.しかし,小学校卒業以来,耳にしたことがないほど区民には知られていない.1950年(昭和25年)に区民から歌詞を募り,当時区内在住の堀内敬三(1897-1983)が歌詞の補作と作曲をしたものと聞いていた.念のためにインターネットで検索してみたところ,驚いたことに今年(2015年)新しい中野区歌が策定されていた.もっとも,旧歌の優れた歌詞について中野区の人に尋ねても知っている人に出会ったことがない.
小学校卒業と同時に引っ越し,横浜市の中学校に入学して,クラスの誰もが横浜市歌を歌えることを知った.小学校で教えられたらしく,中学で教わることはなかったので,私は今でも歌うことができない.あまりにも周知の歌であるせいか替え歌まであり,皆が歌う替え歌の歌詞のほうが今でも印象に残っている.この横浜市歌は,1909年(明治42年)に開港50周年を記念して森 鴎外(1862-1922)に作詞が依頼された.作曲は南(みなみ) 能衛(よしえ)(1881-1952)である.南は,私たちの世代までは覚えていることの多い小学唱歌の「村祭」や「村の鍛冶屋」の作曲者でもある.横浜市歌は以下の通りである.当時の時代背景もあろうが歌詞も曲も壮麗である.
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