連載 歴史と遊ぶ・第4回
明治から昭和へ2
江藤 文夫
1
Fumio Eto
1
1国立障害者リハビリテーションセンター
pp.319-324
発行日 2014年4月15日
Published Date 2014/4/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.5001100462
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明治期の医師養成,資格システムの創成
大政奉還後の新政府は,慶応4年(明治元年,1868年)3月,典薬少允高階筑前介(てんやくしょうじょうたかしなちくぜんのすけ)の建白に基づき,太政官布告第141号をもって,西洋医学によってわが国の医事衛生行政制度,医学教育を行うことを表明した.同年6月には,幕府の機関であった「医学所」を摂取・復興し,翌年の明治2年(1869年)には医学所を大病院(横浜の仮軍事病院の後身)と合併して医学校兼病院,6月にはやはり幕府の機関であった昌平学校,開成学校および医学校とを統合し,統合的な教育機関として「大学校」を成立させた.やがて東京大学医学部および附属病院へ発展する初期の出来事である.
明治5年(1872年)2月,文部省に医務課が設置され,翌年3月には医務局に昇格させ,医制の立案に取り組むこととなった.同時に,初めて全国の医師の実態調査として明細な履歴書を,その書式を示して,全国の医師から提出させることとした.明治7年(1874年)度において,全国の医師総数2万8,262人,そのうち皇漢医は2万3,015人,西洋医は5,247人であった.これは,当時の日本の人口10万人対86.2という医師数で,数字だけは国際的に劣るものではなかった.しかし,幕府がオランダ人医師ポンペを招聘して長崎に開設した病院と教育機関(後の長崎大学医学部の前身)を除いて体系的な教育システムは皆無に等しく,当時の日本の医師のレベルは西洋医も含めて,先進国に比し著しく低いものであった.
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