連載 認知症の人とその家族から学んだこと—「……かもしれない」という、かかわりの歳月のなかで・第19回
理論の大部分は診ることと聴くことによって形づくられる
中島 紀惠子
1,2
1新潟県立看護大学
2北海道医療大学
pp.834-835
発行日 2018年11月15日
Published Date 2018/11/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1688201052
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聴くことの倫理
認知症と診断されたとき、その経験者は、どのようにして、これから起こるかもしれない日常の乱れや失敗の数々の、受け入れがたい運命に自らを慣らし、生きる術と意味を見出したのだろうか。またそのなかで、この病に対する画一的な社会文化(偏見や隠喩に満ちた)の理不尽が、自分や自分の家族の潜在能力を抑圧していることにいかに気づき吟味する人になれるのだろう。
診療やケアの主体である「患者」が、その経過のなかで己の病を物語りへと転じることによって運命を経験へと転換し、当事者になっていく過程、それは聴き手との間に共感的紐帯をつくり、聴き手のなかに自己の内なる経験を呼び覚ましうる力を与える過程である。すなわち、現場で働く職業人のみならず、研究や教育に携わる人が、彼らの声に内なる倫理性を呼び覚まされて学ぶ過程でもある。理論は、その者たちによって形づくられてきたものである*1。前回(本誌2018年10月号)に引き続き、今回はこのことを考えてみたいと思う。
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