- 有料閲覧
- 文献概要
- 1ページ目
- 参考文献
ケース記述研究での研究倫理審査の実際
筆者は,現象学的研究,ライフストーリー研究を主たる方法とした質的研究に取り組んできた。糖尿病などの慢性の病いと暮らす人びとの生活や人生の経験,血糖値などを記録した手帳を活用したセルフモニタリングや診察・面談,訪問看護での連絡ノートを媒体としたコミュニケーションなどを,参加観察,非構造化インタビューや手帳類の撮影,面談場面の録画・録音などのデータ収集方法を通じてケースの経験として分析,記述してきた。質的研究は,「そこにある」世界(実験室のような特別につくられた研究状況ではなく)にアプローチし,「内側から」社会現象を理解し,記述し,時には説明することを意図する(Flick, 2007/鈴木訳,2016, p.ⅱ)。そのため,研究者の先入見をできるだけ自覚して,その現象の内側に潜り込み,それを見るための方法を検討しつつ,見えてきたことを書くような姿勢で研究に臨んできた。これを見よう,これを聞こうと決めすぎないで,研究フィールドに飛び込んでみるという感覚が近い。
研究フィールドでの参加観察やインタビューでは,その場で偶発的に起こるできごとに巻き込まれる自然な態度を保っていると,探究したい現象に入り込むチャンスに恵まれることがある。このようにして集まったデータをもとに,その経験や実践を構成する時には,カテゴリー化のように複数の研究参加者に共通する要素を抽出するのではなく,1人ひとりの,1つひとつの現象の成り立ちを掘り起こして記述する。そのため,研究参加者の来歴,そのできごとが起こった状況の詳細な文脈を書かないことには,その現象がいかに生起したのかを解明することはできない。手帳や連絡ノートであれば,手書きで書かれた数字や言葉,記号が示す内容だけでなく,字体が醸し出すこと,色分けが示すこと,血糖測定後の作業でついた血液のシミが伝えることなど,言葉にならない多くの情報が詰まっている。これらの情報は,セルフモニタリングや在宅ケアの現場で,研究参加者の視点から,本人でさえも明確に自覚していないような感覚にまで接近することを可能にするため,結果の記述に手帳の画像を取り込むなど工夫している。慢性の病いと暮らす人の生活,セルフモニタリング,医療者による治療やケアという経験や実践を,当事者の感覚と共に伝えられるような結果を記述できれば,既存の「セルフケア」や「行動変容」などの概念や理論で一般的に理解することとは異なる日常の経験を解明することができる。それは,その状況下で経験した本人の感覚にフィットした個別的なものである。このように文脈に即した「ケースの知」(家髙,2013)は,暮らしや治療・ケアの只中で生まれる実践を創出したり,その意味をつかんだりするのに参照可能な知見になると考えている。
Copyright © 2024, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.